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去年の秋の終わりに、文楽公演の映像字幕翻訳をさせていただきました。日本の伝統文化を愛する者として、本当に嬉しく、やりがいのあるお仕事でした。

「古典の翻訳である」かつ「映像の翻訳である」という2つの条件から生まれるジレンマや難しさもありました。今回はそこに焦点を当てて書かせていただこうと思います。

医学翻訳に医学の知識が必要なように、文楽の翻訳には、文楽そのものの知識、古典の知識、歴史の知識が必要です。

かつ文書の翻訳ではなく、どんどん流れていく映像翻訳なので、現代人にはわかりにくい用語の注釈などもタラタラとつけることはできません。限れらた文字数の中で、どうやって伝えるか。

現代人には馴染みのない言葉例①:吸付け煙草

例えばこの動画の「(今は二人が)吸付け煙草」という部分。そもそも現代人には「吸付け煙草」というものに馴染みがないですね。

遊女がキセルにたばこを詰め、自分でちょっと吸い付けて、火が付いたことを確かめてから、袖口でそっと拭って客に差し出す“吸付たばこ”は、遊女が男性を誘う手段として流行した風習。遊女たちは、道行く人々の中から気に入った男性を見つけると、格子の隙間からこの“吸付たばこ”を差し出し、男性がそれを吸えばOKの意だったようです。“吸付たばこ”は愛情の証(あかし)とされ、人気の男性には次々と“吸付たばこ”が差し出されました。(出典:JT https://www.jti.co.jp/tobacco/knowledge/society/ukiyoe2/02.html)

「煙草」という単語をそのまま入れた訳をしようと思うと、ここにあるような具体的な説明がないと意味がわかりませんが、どんどん流れていく映像の翻訳では追いつかなくなってしまう。そのため、「煙草」という単語は英訳には出さず「(つれない恋人に向かって)今は私の他にもう一人あなたに言い寄っている女性がいるのを知っている」という意味の英語にしました。

現代人には馴染みのない言葉例②:富士浅間

「わしが思いは富士浅間」というのも、「富士浅間」が何を意味するのか説明したいけれど、それでは映像翻訳では追いつかなくなってしまう。ちなみに「富士浅間」とは能の演目「富士太鼓」がルーツです。

内裏の舞楽の太鼓の役者を浅間と富士という二人が争い、浅間に決まったが浅間は富士を恨んで殺害してしまった。帰らぬ夫を尋ねて来た富士の妻と子は、夫の死を知り嘆き悲しむが、形見の装束をまとい、舞楽を舞う。(出典:能楽協会 https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/program_db/fujidaiko)

なお謡曲『富士太鼓」は、近世戯曲においては「敵討ちもの」として採り入れられています。同じ題材でも、時代の流れとともに脚色・改変されますし、扱う舞台芸能によってニュアンスが異なります。例えばちょっと話はそれますが、この動画の最後にある「鷺娘」も、文楽の鷺娘はカラっとしていますが、日本舞踊(歌舞伎)の「鷺娘」はジメっと恨めしい感じで、ニュアンスが全く異なります。文楽と歌舞伎は時代としては同じ近世ですが、ジャンルが違えば扱いが変わる。ではこの「富士浅間」はどう訳すか。

色々考えましたが、そのあとの詞章が「思いがとめどなく募る、恋人はすっかりつれないけれどそれでも思い続けている、他の人に言い寄られても興味がない」と言っていることから、敵討ちというか、「あなたのことをなんとしてでも取り返したい」という意味の英訳をいたしました。

「正確な翻訳」と「美しい翻訳」

上記二点以外にも、「古典の翻訳である」かつ「映像翻訳である」という2つの条件から生まれるジレンマや難しさはありました。

能の海外公演で、上演中に表示する詞章の翻訳をなさる方もこう言っていました。「本なら“正確な翻訳”が望ましいけれど、演劇は演者のペースで進んでいくため、観客は注釈など読む時間がないので、”正確”であることよりも”美しい翻訳”で観客の心に響くことが大切」と。

今回の文楽の映像翻訳も同じです。色々文学的には詳細に訳したい・注釈を書きたいことはあっても、映像が流れていく以上、映像とともにすっと観客の心に入っていくこと、心に響くことが第一優先。

大好きな文楽の映像翻訳をさせていただいたことは、コロナで通訳案内のお仕事がなくなってしまった2020年において、とても嬉しく、有り難いことでした。

ありがとうございました!

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