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「音に聴き入る」と「音楽を聞く」ことの違いを自覚しなければならない

ブラームスop68の冒頭un poco sostenuto ではまず、9小節めに向かって焦点があっていくような作りになっている。

つまり、小節の4拍子→小節の3拍子→付点四分音符の3拍子と与えられている空間がどんどんと削り取られていく。その効果ゆえに9小節の1拍めのインパクトの痛みは鋭い。

この序奏を8分音符のadagioのように弾いてしまう呼吸にしてしまうとその緊迫感は失われる。だらしない音響がだらだらと鳴り続けるだ。

楽譜を見ると、この序奏は明らかに6/8拍子であり、adagioでもない。よく聞かれるやり方は、所詮この曲の演奏についての記憶であり、その先入観でしかない。楽譜から悩んだ読み方ではない。まあせいぜいその記憶による先入観から、この延々と続くフレージング記号をどう分断するのか程度でしかないだろう。

しかも、その記憶に支配された巨大な音響羅列を実現するためにひとつひとつの音をたっぷりと響かせ、ビブラートをたっぷりとかけていく。もはや楽譜のフレージング記号などどうでもいい状態に陥っている。その歌い方は小節の中に6つの八分音符があって、それらがルバートしあっているような状態になってしまう。仮にそうだとしたら、6/8とか小節という秩序は失われてしまうだろう。

演奏にあたっての自分のアプローチを「記憶の正当化」にしてしまうのはオリジナルの作品の軽視でしかないのだ。

この序奏の演奏にあたって、まず大事なのは6/8の楽譜の小節を捉えられるのかどうかだ。
つまり、8分音符を6つで数えるのではなく、小節の中を6分割する圧縮の把握力があるかどうかが、その第一歩なのだ。

ひとつひとつの音符を鳴らすのは気持ちがいい。かつて、自分もビブラートをたっぷりとかけて響かせることこそ大事だと思っていた。だが、そうすることが音楽を停滞させて、楽譜の設定から乖離してしまった。つまり、ビブラートをいっぱいに効かせ、「音に心を込める」という罠に堕ちていたものだった。中年管理者の絶唱するマイウェイのようなその歌い方は、ある意味で日本語文化の問題と関わるのだろう。母音の倍音的な響きがどうしても堪らないのが本能なのだろう。そこに快感がある。
だが、それが楽譜から出発していないことに気がつくと、もはやそれが音楽ではないことに気が付かされるのだ。

例えば、「津軽海峡冬景色」であっても、その6連符のフレーズを崩してしまうことはできないのだ。「上野発の 夜行列車」は「降りた時から」にかかっている。そこに帰着する。それは明らかに六連符の音楽である。なのに、小節の中を4つの三連符で執ってしまうと、推進力を失った重い歌に陥ってしまうのだ。※市販のものにはそういう楽譜も多いけど。

ブラームスop68のこの6/8un poco sostenuto も低音パートはその各小節をスラーで括られている。これも、楽譜が小節を単位として音楽が構築していることを示している。そういう全体像を見せるための尻尾があるのだ。小節の中を均等に分割する六連符が支配していると見ることができる。逆にそのスラーが無かったとしたら、6つの八分音符がルバートしあっていると解することは出来たかもしれない。だが、楽譜はその余地を許してはいないのだ。

音を語ってもそこに秩序はない。秩序のない音の羅列は単なる音響でしかない。「笛の音」「寺の鐘の響き」というものの奥を見るのは日本文化的な、何かしら、密教に通じる精神的奥義であるかもしれない。

だが、楽譜に支えられているこれらのクラシック音楽は、そういう無秩序さと違う。クラシック音楽は数学や論理学に通じる秩序を前提としたものである。その両者のあり方を混同せずに、それぞれの立場を理解することこそが大事なのだ。

その区別を出来ることが始めの一歩なのだ。そのことを最近、強く感じる。

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