水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員…

水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員やっています。高校では吹奏楽部の指導もしています。週休3日の嘱託人生に入りましたがあい変わらず通勤時間の暇つぶしに演奏側の立場として、音楽演奏に関する気がついたことや仮説を書いたりして参ります。

最近の記事

疾走する哀しみ

K.550の第1楽章2/2molto allegroの開始は興味深い。ここには1小節目が完全小節と存在することだ。 なぜブラームスop98のように主題のアウフタクト開始にしなかったのか?そこに作品の狙いがあるのだ。 この第1主題が現れるとき、その開始は、他の箇所ではアウフタクトと小節一つがあって伴奏が後から乗ってくる。だが、ここではまず伴奏があって、その後に主題が乗ってくる。これは何気ないことだが、実は決定的な違いがある。 この冒頭は本来なら、小節の4拍子の骨格を持ち、

    • 「そこにある」から背後の骨格を知る

      K.550の冒頭やブラームスop73第1楽章の開始は拍節としてはどの位置にあるのか?  実はこれは見出しにくい。 感覚的に見ているだけでは見誤まってしまうだろう。つまり、音が鳴り始めるところを拍節の開始位置だと思ってしまう。だが、そういう執り方では作品に仕掛けられた仕組みを捉えることはできない。そして、提示部の反復で矛盾を起こすことだろう。 例えば、K.550の反復箇所にあたる100小節めの四分音符は拍節的には「1拍目」にあたる。反復した場合、1小節めは「2拍目」になる。

      • 音が作る空間を把握する力と音楽

        スラブ舞曲の有名な第8番は演奏者泣かせの曲だ。拍節感が問われる。3/4の拍子感で、あたかも3/2のようなメロディを歌わされるからだ。 この曲の場合、その最初のフレーズが8小節めに帰着することを足掛かりにしてみると ①0 1 2 3 ②4 5 6 7 | 8 という骨格が垣間見れる。 だが、これでは「2拍子」で終わってしまうので不安定になる。ヨーロッパの音楽はこれを嫌うので、 このフレーズはもう一度繰り返される。そうすることによって4つの小節による大きな4拍子という安定し

        • そのフレーズの帰着点を捉えなければ実像は見えてこない

          スラブ舞曲の有名な第8番は演奏者泣かせの曲だ。拍節感が問われる。3/4の拍子感で、あたかも3/2のようなメロディを歌わされるからだ。 この曲の場合、その最初のフレーズが8小節めに帰着することを足掛かりにしてみると ①0 1 2 3 ②4 5 6 7 | 8 という骨格が垣間見れる。 だが、これでは「2拍子」で終わってしまうので不安定になる。ヨーロッパの音楽はこれを嫌うので、 このフレーズはもう一度繰り返される。そうすることによって4つの小節による大きな4拍子という安定し

        疾走する哀しみ

          楽譜から理由や根拠を探す

          ベートーヴェンop21の第2楽章は3/8のandante cantabile con motoだが、楽譜を意識して読んでいない時、八分音符を「1つ」として数えていた。だが、その三角三拍子ではアウフタクトと小節ごとに足が止まってしまう。 その現象のような呟きの連続ではまとまった論理には発展し得ない。音楽を「音」の遊びのように捉えてしまうと、そういう呟きの連続に終わってしまうことに気が付くことができない。 ビブラート依存症になっているとますますその深い淵に陥ってしまう。 楽譜

          楽譜から理由や根拠を探す

          音を合わせるのではなく節というボードに乗る。〜1小節めの前にあるもの

          例えばベートーヴェンop60の第4楽章の開始などは明らかに0小節が前提となって音楽が成り立っている。 つまり、この冒頭は0小節めを起点にした小節の四拍子によって土台が作られている。 0 1 2 3 | 4… さらにはこのこの4つの小節を分母にした大きな三拍子で出来ているとみなすことも出来る。 同じようにこの第3楽章の冒頭のフレーズは、0小節を起点にした小節の四拍子と解すると途端に舞踏楽章としての躍動感を発揮することができる。 D759の第2楽章も0小節めを起点とする小

          音を合わせるのではなく節というボードに乗る。〜1小節めの前にあるもの

          小節の中を見ていても音楽は見えてこない〜ブラームス交響曲第3番第2楽章

          ブラームスop90の第2楽章andanteもop68の第3楽章と似て、簡素で素朴なようだけど実は複雑な作りになっている。音符を数えて鳴らすだけなら悩むことはないだろう。その響きの美しさにだけ焦点を当てて、外部情報を織り交ぜて浸るように演奏すればいい。だが、おそらくandante を保つことはできないだろう。それは音響はわかっていても音楽は見えていないからだ。そのような4分音符のカウントではこの音楽は鳴らすだけで終わってしまうのた。 そもそも、この主題は二つの小節を分母とする

          小節の中を見ていても音楽は見えてこない〜ブラームス交響曲第3番第2楽章

          音楽の縮尺を楽譜から見つけることが大事な一歩

          ベートーヴェンop21の第1楽章4/4allegro con brioの第1主題は小節を分母にした6拍子の骨格でできている。この骨格についての自覚がないと、無意識のうちに小節の4拍子のように把握してしまいがちだ。これはハンガリア舞曲第1番の演奏にもよく見られる失敗だ。およそ「4拍子」の拍節が安定的で一般的な形だから、道のりを調べないとこういう罠に引っかかるのだ。 そして、この第1主題もハンガリア舞曲の場合も、小節の6拍子の骨格の上で把握しないとコントロールできない。音の塊ご

          音楽の縮尺を楽譜から見つけることが大事な一歩

          古典派の「反復」は形を整えるための必然

          いわゆる「古典派」の交響曲における緩徐楽章において反復がしつこいと感じることがあった。だが、それは小節の中身を数えているからであってその軌跡が何を描いているのかを見ていないからである。 バロックダンスは踊り自体だけでなく、その軌跡がつくる形をもまた大事にしている。ダンスの主宰が舞踏譜を考え、書いて残したのもそのためだ。細かいひとつひとつの個の踊りと共に、それらが動くべき形がまずある。その軌跡こそがそのダンス全体の骨格なのだ。フォークダンスが円を描くように、あるいは現在でも、

          古典派の「反復」は形を整えるための必然

          楽譜という事実とその解釈

          「くま」の愛称で知られるhob1:82の第1楽章は3/4vivace assaiで書かれている。vivace assaiはhob1:94の第1楽章でもそうだが、モーツァルトやベートーヴェンはいうところのallegro vivaceに相当するように見える。つまり、アウフタクト小節がフレーズを作っていく。普通のvivaceがアップとダウンの呼吸のセットで進むと違う。vivace assaiやallegro vivaceはallegro的な起点とは異なる。アウフタクト小節がきっかけ

          楽譜という事実とその解釈

          楽譜の通りに演奏する。しかし、積極的に、考えながら〜ベートーヴェン交響曲第1番の開始

          ベートーヴェンop21の開始は主和音を外したところからスタートすることは知られている。だが、そんなことよりも大事なことは、4小節めというスタートラインがあって、そこに至る過程があること。つまり、そこまでの3小節間は4小節めを修飾している位置にあることだ。 4小節の四分音符に、この3小節間の帰着点がある。そういう俯瞰があると、この過程の「高低差」が見えてくる。大事なのは、その起伏を読み解くことなのだ。 ① 1 ② 2 ③ 3 | ① 4… だが、では4小節めから流れていく

          楽譜の通りに演奏する。しかし、積極的に、考えながら〜ベートーヴェン交響曲第1番の開始

          脈絡が見えないのか、見ようともしていないのか

          ブラームスop98の第1楽章、2/2allegro non troppoは楽譜の通り2/2で執ると、その主題は変拍子が仕組まれていることがわかる。 つまり ①0 0 ②1 2 ③3 4 ④5 6 とここまでの「往路」は4拍子拍節であるのに、その「復路」は ①7 8 ②9 10 ③11 12 ④13 14 ⑤15 16 |①17… という5拍子拍節で出来ている。 よくある4/4的な演奏ではこの仕組みの面白みは体現できない。そういう演奏はまさに「音響の羅列」でしかな

          脈絡が見えないのか、見ようともしていないのか

          圧縮的に捉える力

          Hob1:92の第4楽章2/4はpresto ならではの4小節の単位の往復で出来ているように見えるが、実はその8小節フレーズの往復を見なければ、つまり、16小節までがひとつのまとまりとして捉えなければ全体像にはならない。 認識を慎重にするくせをつけないと中途半端なところで考えるをやめてしまう。それは残念な失敗である。フレーズやフレーズの断片だけに振り回されていたら本旨はわからないままに終わってしまう。 この曲の場合、prestoであると楽譜が主張しているわけだから、小節の

          圧縮的に捉える力

          背後にあるものを掴む

          若い頃、地元のアマチュアの人たちがK.551を演奏するのを見に行って、そこで第4楽章3小節目でアンサンブルが破綻するという事故に遭遇したことからある。結構いい演奏だったんだけど、「なぜここで?」という疑問が残った。オケの人たちや指揮者の問題というよりも作品自体に「罠」があるんじゃないかと、その時なんとなく思ったのだ。 しばらくそんなことを忘れていたけれど、改めてこの作品について考察していたら思い出したのだ。 さて、K.551の第4楽章の主題は4つの小節がスラーで括られてい

          背後にあるものを掴む

          見えない存在を補う力

          楽曲を、聞こえない音、書かれていない音符も補って捉える。それができないといわゆる西洋の音楽、あるいは五線譜の音楽は正しい位相で把握できない。 五線譜の小節は基本的に等間隔に区切られている。容数は決まっている。フレーズを中心に考えると、その不思議や小節の中は割り算的な捉え方になる。 ブラームスop73の第2楽章3/4adagio ma non troppo は、その開始がアウフタクトの四分音符になっている。だが、その四分音符の前に付点2分音符分の空白があることを読めなければ

          見えない存在を補う力

          外分点の発見と音楽〜ベートーヴェン交響曲第2番第4楽章

          Hob1:86の第4楽章allegro con spirito の指揮が若い頃には難しかった。もちろん、小節の中を二つや四つで執れば簡単なのだろうけど、それでは小節と音符とが作っている弾力性のあるリズム感が死んでしまうからだ。そして、そもそも、音符しか見ていなかったからだ。その開始である2小節目のためのアウフタクトの起因がわかっていなかったのだ。 「spirito」系のallegroはおよそ4つの小節を分母とする音楽である。それが読めていれば、この運動性は簡単に読み解けたの

          外分点の発見と音楽〜ベートーヴェン交響曲第2番第4楽章