水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員…

水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員やっています。高校では吹奏楽部の指導もしています。週休3日の嘱託人生に入りましたがあい変わらず通勤時間の暇つぶしに演奏側の立場として、音楽演奏に関する気がついたことや仮説を書いたりして参ります。

最近の記事

「ひとつひとつの音を大切に」の発想が音楽を見えなくする

拍子は分数で表される。この時、分子が三の倍数である場合、分子は三連符化される。例えば6/8の分子は6つの八分音符となる。分母はその三連符化されたものを何で表すかを示すものになる。 だがその結果は例えば6拍子の分子、「三連符二つ分」というわけにはいかない。その捉え方はあくまでも便宜上の問題でしかない。6/8はあくまでも小節の6連符化であり、12/8は小節の12連符化である。つまり、6拍子は3拍子二つではない。12拍子は4拍子ではない。これを「複合拍子」と捉えるのは間違えている

    • 飛び込む勇気と引き出す勇気〜「その指揮では入れない」という常套句

      補助輪を外して自転車に乗れるようになると、そのバランス感覚は当たり前になる。逆に、補助輪があるときにはその安定が癖になってしまう。 「数える」というのが癖になっていると、その補助輪がなくてはならないものになってしまう。 「数える」は基本中の基本だ。しかし、それはメルカトル図法的な正確さでしかない。つまり、自然ではない。どこかを諦めた正確さでしかない。 メルカトル図法の地図は緯線と経線が垂直に交差し、二点間の角度は正しく測ることができる。だが、面積は極方面に向かうほど歪ん

      • 他人の振り見て…〜とある失敗例から学ぶこと

        チャイコフスキーop74の第1楽章の第1主題も楽譜と演奏が乖離しているように聞こえる典型だ。 小節の中を完全に4つの四分音符で数えているから、楽譜上での呼吸感が生かさせれてこないのだ。 その問題が顕著になるのは例えばallegro non troppo の5小節め(23小節目)、そして、その拍節感の破綻が29小節め〜31小節めで決定的になる。この辺りの難しさを妥協的に乗り越えるために四分音符で数えて合わせるしかなくなっているのではないだろうか。そもそもこの4分音符の数合わ

        • 「作品=作者の心情」を解き放つ

          K.543第1楽章がそうであるようにK.504の序奏と主部の緩急対比はシステム的なギアチェンジで移行可能なはずだ。序奏を20世紀的な意味でのadagioという遅さに縛ってしまうから、この序奏があり得ないくらい長いのだ。長くなってしまうのはテンポ感が間違えているからだ。見通しが立っていないから、尤もらしい音響を鳴らして並べていく。その結果がよくある今日的な常識になってしまったのだろう。 Andante やadagioを必要以上に「遅いテンポ」と考えてメトロノーム的に4分音符や

        「ひとつひとつの音を大切に」の発想が音楽を見えなくする

          フレージングから骨格の全体像を探るとテンポは見えてくる

          ベートーヴェンop55の第1楽章で、その3小節めから始まる主題。その最初の二つの小節はスラーで括られている。このスラーが与える緊張感はとても見事だ。このスラーが与える「張り」がこのメロディの推進力を支えている。マストが風をいっぱいに受けて帆船を進ませていくように。 問題は、この楽譜に書かれている重心や力のバランスを読み取っているかどうかだ。それが読めていない時、このスラーは義務的な音の繋がりにしかならない。このスラーに漲るものを感じないとしたらこの主題自体は死んだも同然なの

          フレージングから骨格の全体像を探るとテンポは見えてくる

          フレーズの尻尾、または触角を捕まえる

          K.488の6/8adagioが難しいのは小節の中に「2+1」を二つ聴いてしまうからだ。それでも和音の美しさのために「聞けて」しまう。だがそれでは「6/8拍子」で書いてある作品の目的は達せない。 ひとつの小節の中を 「2+1」+「2+1」 ではなくて 「2+1+2」+1 で捉えられなければ、この6/8adagioの楽譜は目的を達せられないのだ。 もう少し踏み込むと 1 | (2+1+2)+1 | … というアウフタクトの鼓動の上にあるリズムが骨格にあることに気がつか

          フレーズの尻尾、または触角を捕まえる

          耳をそばだてる

          指揮をするようになってからは何事も先んじて動いていなければ現実に対応できない、という姿勢が身についたように思う。現実に身を任せるのではない。現実の波に乗れるかどうかは自身の身構えの問題なのだ。そういう考え方ができるようになった。 それは「聞く」という姿勢について最も顕著である傾向がある。音の真ん中ではなく、音の先端を聞くようになったということだ。「子音」が鳴るその前の瞬間を捉える、とでもいうのだろうか。聞き耳を立てる、というのはまさにこんな感じだろう。 その聞く姿勢は実に

          耳をそばだてる

          語るべき形

          例えば、英語でこなれた語り口で喋ろうとする時、何かしら語り方のリズム感にテンプレート的なもの感じることがある。 語り方にはそれなりの形がある。まして詩には形がある。 音楽にも同じように形がある。それは教会由来のもの、あるいはダンス由来のもの、それぞれに固有の形がある。 音そのものに意味があるのではない。形として初めて意味をなす。 語るべき形を意識する。 その意識を持って演奏しないと、例えばコリオラン序曲もエグモント序曲もゲシュタルト崩壊したものに陥ってしまう。物々し

          語るべき形

          文章が読めない人と音楽

          文章を読む力のない人は、結局その論理の帰結するところがどこにあるのかを待てない。その帰結するまでの過程の中の、単語やフレーズに囚われてしまう。だからその文章の帰結点までを「ひとつ」として捉えられない。英語文はとても見通しの良い構造を持っているけれど、関係詞やなんやらの仕組みが見えてこない人には、やはり捉えられない。 「音楽は感性で聴く」という捉え方をしている人はこの手の類と同じ失敗に陥ってはいないだろうか? つまり、単語やフレーズのような部分と同じように音響自体を捉えてしま

          文章が読めない人と音楽

          なぜ12拍子なのか?そこから考える

          例えばチャイコフスキーop64の第2楽章はなぜ12/8で書かれているのだろうか?6/8や3/8でない理由は「ひとつ」の捉え方の問題なのだ。 この曲が12拍子である理由はアウフタクトを呼び起こす運動を小節自体に委ねているからだ。アウフタクトを呼び起こすのは付点二分音符や付点四分音符ではない。つまり、小節の中に補助線を引いて分割するような行為を避けたいからだ。この小節を四つや二つでカウントするのは楽譜の目的に従っていないからだ。もし、そういうカウントで演奏したらホルンが歌い出す

          なぜ12拍子なのか?そこから考える

          「よく知っているはずなのに…」大事なのは記憶を越えて向き合うこと

          子供の頃にペールギュント組曲に心を奪われて、クラシック音楽が好きになった。 青年期にとあるきっかけでその「朝」を練習の時に指揮しようとなった。が、そんな嬉しいはずの時に、「あ、思ってたようには動かせていない」と自信を失った、なんて経験がある。 よく知っているつもりであっても、いや知っているからこそなのか、演奏とはそうはいかないものなのだ。 さて、若い自分にとって、このベールギュントの「朝」がうまくいかなかった理由は、今となっては単純だ。6拍子が見えていなかったからだ。8

          「よく知っているはずなのに…」大事なのは記憶を越えて向き合うこと

          アプローチの角度が見えているか

          Hob1:82の第1楽章は3/4vivace assaiになっている。この冒頭8小節はvivace 特有の2つの小節を分母とする大きな三拍子で形を成している。 ①1 2 ②3 4 ③5 6 |①7 8… この形で語れるようにする。そのためには「四分音符の三拍子」のカウントをしないようにすることが大事だ。 Vivaceの跳躍的なリズム感を想像すると縦方向の動きをイメージしがちだが、この曲に関して言えば、進入角度は小さく鋭く、横方向への発展性の高さが問題になる。 この角度

          アプローチの角度が見えているか

          「常識」よりも「生命感」の方を大事にしたい

          K.543の序奏は2/2dagioで書かれている。だが、この序奏と主部3/4allegroとは拍節的な関係で結ばれている。この緩急対比は序奏の2分音符が主部の小節ひとつ分にあたる2:1の関係になっている。それは序奏最後の小節を見れば明らかだろう。指揮者なしに緩急の切り替えが可能な作りになっているのだ。 この比率関係はHob1:101や103のそれと比べるとよく似ている。 だが、そういう楽譜の事実と慣習的な演奏テンポは乖離している。adagioが遅すぎるのだ。これも20世紀

          「常識」よりも「生命感」の方を大事にしたい

          「解釈」よりも大事なのは可能性を探ること

          ベートーヴェンop92の第1楽章主部はvivaceで設定されている。だが、そのvivace の呼吸の開始を楽譜上の主部からと取るのかどうかは悩まされる。 そもそもvivace を単純な快活では、元気な雰囲気と捉えるのか、運動的な意味合いでの小節の使い方の約束と捉えるのかが問題だ。 この問題についての自分の見解は以前も書いた通りだ(2023年12月12日記事)。つまり、vivace は小節の使い方についての共通認識の約束なのだ。二つの小節をアップとダウンの呼吸の組み合わせで

          「解釈」よりも大事なのは可能性を探ること

          選択の難しさと楽しみ〜D944第1楽章をどう閉じるのか?

          緩急の対比の考察材料としてK.588序曲は興味深い。 2/2andanteとprestoの緩急構造でできているこの曲だが、その終結部直前で冒頭の「緩」部が再現される。だが、その緩部再現は冒頭の倍の音価て記されている。つまり、この2/2andanteと2/2prestoの関係は2:1の関係出できていることが分かる。 つまり2/2andanteの1拍(2分音符)は2/2prestoの小節ひとつ分に相当するということが分かる。andante が遅すぎると急部prestoの生命感は死

          選択の難しさと楽しみ〜D944第1楽章をどう閉じるのか?

          パーツを組み合わせて立体を作る〜ベートーヴェン交響曲第9番第3楽章

          言葉の始まりは明確なものでなくてはならない。どこが視点であってどこに向かっていくのかが見えていて初めて「伝わる形」になる。音響を聴かせようとすることと、論理としての音楽を演奏することはここが違う。 楽器の練習を深くやっているほど「響き」に傾倒していく。それは悪いことではないけれど、その先にある罠に落ちてしまうと論理としての形を見失ってしまいがちだ。 本能的なこの罠に落ちてしまった人は言葉の始まりの不明確さを脳内補正していることに気が付かなくなる。その不明確さと尤もらしい響

          パーツを組み合わせて立体を作る〜ベートーヴェン交響曲第9番第3楽章