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脈絡が見えないのか、見ようともしていないのか
ブラームスop98の第1楽章、2/2allegro non troppoは楽譜の通り2/2で執ると、その主題は変拍子が仕組まれていることがわかる。
つまり
①0 0 ②1 2 ③3 4 ④5 6
とここまでの「往路」は4拍子拍節であるのに、その「復路」は
①7 8 ②9 10 ③11 12 ④13 14 ⑤15 16 |①17…
という5拍子拍節で出来ている。
よくある4/4的な演奏ではこの仕組みの面白みは体現できない。そういう演奏はまさに「音響の羅列」でしかない。
K.543の第1楽章主部の主題を小節の中を「三角三拍子」で執ってしまうと、このメロディの構造が実は7拍子構造になっていることに気付けない。小節を単位として論理を作っているのに、それが全く生かされてはいかないのだ。
ましてやHob1:101の第1楽章の主題を立ち上げるアウフタクトが単なるおまけになってしまうようではダメなのだ。主題の5拍子構造が見えていないから、そういう上滑りな演奏に終わってしまうのだ。
平面の楽譜に書かれている音楽をそのまま平面で鳴らしたところで、それでは作品としての立体は再現されないのだ。
一般的に、音楽を「音を聴くこと」に焦点を持っている傾向が強いように感じる。だが、「音楽が音を用いて論理」を作るものだと気がつくと「音並べ」では役に立たないことを悟るのだ。
「外見より中身」とかいう考え方が重視される傾向があるが、音楽でいえば、その「中身」が音響になってしまうのは、作品というものを余りにも見ていない姿勢だ。
「感じることが大事」というのも、それは鑑賞側の姿勢であって、演奏者が脈絡を疎かにする理由にはならない。
脈絡のない音鳴らしでは作品の論理性は全く注目されない。特にブラームスやハイドンのような作り手の場合、そのような演奏は耐えがたい屈辱なのではないだろうか?
表面的な音響や、わかりやすい仕掛けばかりに注目が集まってしまい、本来の作品の組み立ての見事さには気が付かれない。それは作品がどぶに捨てられているようなものだ。どんなに深みのある和音を響かせたところで、それは作品の目的とは違うものなのだ。
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