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圧縮的に捉える力

Hob1:92の第4楽章2/4はpresto ならではの4小節の単位の往復で出来ているように見えるが、実はその8小節フレーズの往復を見なければ、つまり、16小節までがひとつのまとまりとして捉えなければ全体像にはならない。

認識を慎重にするくせをつけないと中途半端なところで考えるをやめてしまう。それは残念な失敗である。フレーズやフレーズの断片だけに振り回されていたら本旨はわからないままに終わってしまう。

この曲の場合、prestoであると楽譜が主張しているわけだから、小節のグループ単位を広く見なければならないのは明白だ。テンポの問題というよりも縮尺の問題であるように思うのだ。

全体像がどうなのかが分かると初めてテンポ感が掴める。この曲の場合、4小節や8小節の部分的な把握では作品の求めるテンポ感は見えてこないのだ。

音符を単に鳴らす、並べるだけでは音楽は見えてこない。楽譜の把握力とはひとつの息の中にその楽譜の情報をどこまで圧縮出来るかと関わっているのだ。小節の中を数えている段階でも拍の中にどれだけの音符を圧縮出来るかに読譜の基本があるのと同じだ。巨大な情報を単位的に分解して捉えるためにはそのような圧縮的な把握の力がなくては難しいのだ。

数学でいうところの「素因数分解」や「因数分解」という考え方は、そういう「把握」のヒントになる。
ごちゃごちゃした大きな数字も素数単位に分解できれば問題点はいくつかのまとまりに分解できる。あるいは共通項でまとまりを括ってしまえば、その構造は掴みやすくなる。

ブラームスop98の第4楽章が遅い三拍子に陥ってしまうよくある演奏なども、そのシャコンヌテーマとその全体像の把握が出来ていないからなのだ。圧縮しないまま、単なる音を並べている。そうやって響きを聴いているから論理構造を見ることが出来ない状況から抜け出せないのだ。

Hob1:92第4楽章に話しを戻そう。

そのように圧縮して捉えた時、その開始にあるアウフタクトはどうなっているだろうか。実はこのアウフタクトも0小節目という把握の中に含まれていないと矛盾した図形にしかならない。アウフタクトを軽く扱っているのはヨーロッパの演奏者にも少なくないが、例えばこの曲が単なるすっ飛ばしになりがちなのは、このアウフタクトの把握に失敗しているからだ。別な言い方をすれば、その起点を1小節目においているからアウフタクトが軽くなってしまうのだ。

①0 1 2 3 ②4 5 6 7
③8 9 10 11 ④12 13 14 15 |①16…

という構造把握がなくてはアウフタクトの存在は薄くなってしまう。特にこの曲、あるいはハイドンの場合、アウフタクトの掴みは歌い方に大きく影響する。アウフタクトが呼吸の中に収められていないと、「ハイドンの歌い方」にはならない。ロッシーニのようなスピードに走るハイドン演奏は大抵、これが掴めていないように聞こえるのだ。

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