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楽譜から理由や根拠を探す

ベートーヴェンop21の第2楽章は3/8のandante cantabile con motoだが、楽譜を意識して読んでいない時、八分音符を「1つ」として数えていた。だが、その三角三拍子ではアウフタクトと小節ごとに足が止まってしまう。

その現象のような呟きの連続ではまとまった論理には発展し得ない。音楽を「音」の遊びのように捉えてしまうと、そういう呟きの連続に終わってしまうことに気が付くことができない。
ビブラート依存症になっているとますますその深い淵に陥ってしまう。

楽譜に書いてある「cantabile」を理由にしたところで、そういう演奏は楽譜を逸脱していると言わざるを得ない。そもそも「cantabile」はフレーズやメロディに対してである。音を響かせるということではない。

この主題自体は小節を分母にした6拍子の構造で出来ている。0小節を起点に6小節めに帰着する運動である。それは楽譜から読み取らなければならない。

その構造を知った上でないと、小節ごとにバラバラになる危険がある。それはテンポ以前の問題だ。

ブラームスop90の第2楽章も、二つの小節を分母にした7拍子という構造が見えていないと感情的な音並べで終わってしまう。特にこの主題が14小節めに深いステップを置く「流れ」が見えていないのに感覚的にそこを強調しようとするからおかしな事になるのだ。

点や部分だけをフィーチャーしようとすると全体のバランスが崩れる。バラバラなものをただ並べている演奏では、その「流れ」を見ていないから突拍子もないテンポ変化でしか対応出来ないのだ。

なぜそこに深さがあるのか?
を考えずに、「ただそう感じたから」では自然な歌い方はできない。周囲との結ばれた関係を崩さざるを得なくなってしまう。
そこに至るまでの過程を作っていく。そういう筋書きが見えていない演奏は下手に聞こえる。そういう「流れ」を捉えていない感情的な演奏が「田舎芝居」になってしまうのはそのためだ。

その作品を作った作者でさえ、その流れの仕組みや構造には気がついてはいないかもしれない。ただ高揚させたり、萎縮させたりする流れが結果的にそうなったというパターンは少なくないだろう。
文化圏に共有できる論理の仕組みの上に作品は成り立っている。意図しなくても構造を持ち得るのは当然なのだ。

だが演奏者は作者とは違う。作者の個人的な感情や背景とは別に、作られた作品の論理構造を読み解く。それが作品に自然さを与える秘訣なのだ。
作品の中に作者本人の感情を発見するのは趣味の問題でしかない。そこに何かしらの理由をつけても、おそらく明確な根拠にはならない。そして、それは決してフェアな方法とは言えない。演奏者にとって根拠は楽譜でなくてはならない。蘊蓄や伝記をどんなに並べても明確な根拠にはならない。一方で、目の前の楽譜にそう書いている以上の明確な根拠となり得るものはない。

演奏者が自分なりに「感じた」ことは大事だ。だが、それは入り口でしかない。その感性レベルの問題を楽譜という根拠に基づいて考察する段階がなくてはならないのだ。

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