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音が作る空間を把握する力と音楽

スラブ舞曲の有名な第8番は演奏者泣かせの曲だ。拍節感が問われる。3/4の拍子感で、あたかも3/2のようなメロディを歌わされるからだ。

この曲の場合、その最初のフレーズが8小節めに帰着することを足掛かりにしてみると

①0 1 2 3 ②4 5 6 7 | 8

という骨格が垣間見れる。
だが、これでは「2拍子」で終わってしまうので不安定になる。ヨーロッパの音楽はこれを嫌うので、
このフレーズはもう一度繰り返される。そうすることによって4つの小節による大きな4拍子という安定した拍節構造を作っている。これに乗れると演奏は楽しい。

Hob1:80の第4楽章2/4prestoはその主題もシンコペーションで動くので拍節感が騙され易い。しかもスラブ舞曲と違って伴奏が希薄なので、そのシンコペーションなフレーズを歌うバイオリン群も、合いの手を入れる伴奏群もとても不安に囚われる。

だがprestoであることと、そのフレーズが12小節めに帰着することがヒントになる。つまり、そのヒントにより、

①0 1 2 3 ②4 5 6 7 ③8 9 10 11 |①12…

という4つのprestoの小節枠組みによる大きな三拍子であることから分かるのだ。

このようなシンコペーションの音楽は「拍」を踏まないで進行するから掴みにくいかもしれないが、必ず帰着点があって、そこでは拍と一致する。義務教育で「最小公倍数」を勉強する機会があるのは幸せなことだ。例えば回転する三角と四角の軌跡はどこかで必ず一致するという幾何学の理屈を垣間見れるからだ。

話しは逸れるが、義務教育でこのような勉強をして、
「できるかどうか」を問うことは「教育」や「福祉」としての行政の立場としては好ましくない。そういうことを知る「機会」があることこそが尊いのだ。一方でこれらの「勉強」を「便利に使える国民作り」という視点で捉えれば、「できない」🟰「劣等」になってしまうのだろう。教育はなんのためにあるのかは問い直されねばならないだろう。

さて、このような最小公倍数的な発想による軌跡の面白さがこのような作品にはある。そして、それを乗り越えられることはある種の「快感」でもある。サヴァリッシュが「ハンガリア舞曲は頭で喜ぶ音楽であり、スラブ舞曲は身体で喜ぶ音楽だ」なようなことを語っていたが、それは尤もなことだ。ここでいう「身体」はもちろん本能的な意味ではない。頭で律している快感のことである。本能的な喜びは単なる快感でしかない。しかし、本来本能的な身体を頭でコントロールできることもまた精神的な快感なのだ。このシンコペーションの拍節による克服も同様だ。自転車やスケートができるようになるのと同じ快感の部類にある。

シンコペーションの場合、どこかにある最小公倍数的な帰着点を見つけることが克服の糸口になる。そして音楽演奏とはその「帰着点に向けて一致」するために動いていることを改めて知ることになる。逆に言えば「頭を合わせる」発想では音楽演奏は、本来の位相とは違うものになってしまうのだ。

こうした背景を踏まえて、K.550の第1楽章やブラームスop73の第1楽章を見直してみると、その開始点を間違えていることに気がつくかもしれない。これらの作品の面白さは実は先程のハイドンの場合と同じだ。フレーズの帰着点を見出せていないから騙されてしまうのだ。

音楽を聴覚的な音の知覚点で認識しようするのは音しか聞いていないからだ。微分の発想では全体像は見えてこない。鳴っている音がどのような軌跡を描こうとしているのか?それを捉えようとしなければ音の向こうにある「形」は見えてこない。鳴っているその音ではなく、それがどこに帰着するのかを見極めなければ演奏は取り留めもないものになってしまうのだ。

なお、この捉え方の問題は批評の立場に立つ人にも言える。作品の実像が見えていないのに語ることはできないからだ。感情や感覚で語るのは趣味の楽しみなのだから。

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