*タイトルをクリックすると記事に移動します (このブログは、20022年9月中旬に開設工事を開始、同年11月1日に竣工) Ⅰ 美術の終末、芸術の終末01|美術の終末、芸術の終末 02|イベントが悪いわけではない、しかし・・・ 03|1970年代、芸術から風俗へ 岩田信市と赤瀬川原平 04|すぐ横には異なる芸術観が・・・ 05|終末論から読み解くバンクシー 06|終末論から読み解くバンクシー(続) 07|終末論から読み解くバンクシー(続続) 08|終末論から読み解くバンクシー
2024年3月25日/記 (敬称省略) 下田尚利は、家元継承後もいけばな改革の志を保ち続けた。ただ、いけばな界内部の改革をなしえたのかどうかについては、正直に言って、よく分からない。はっきりしているのは、前衛いけばな時代の気概を次世代に伝え、次世代の現代いけばな活動を牽引したことだ。実に辛抱強く活動の継続に力を尽くしたのである。 流派社会の改革 「いけばな界」と書いたが、その実態は流派が集まって形成している「流派社会」である。現代いけばなの分野も成立しているとはいえ
2024年2月22日/記 (敬称省略) いけばな改革を唱えていた下田尚利にとっての最大の矛盾は、家元継承だったのではないか。本人が私との対談「道行」で「家元という肩書は居心地が悪い」と言っているくらいだから、矛盾は十分に承知していた。1983年に父親である大和花道家元の下田天映が死去し、「継がざるを得ない」ことになり、翌年家元を継承した。その事情に一歩踏み込んで、下田の家元問題について考えてみたい。 家元継承は不幸? 下田の家元継承の数年前、前衛仲間だった勅使河原
2023年12月16日/記 (敬称省略) 下田らは1973年に月刊誌『いけばな批評』を創刊する。雑誌刊行には、かつての挫折へのリベンジといった色合いが濃厚にある。下田らの挫折以後を、いけばな界の動きとともに、再検証してみたい。 いけばな界を離れて 下田尚利は、父親との間に確執が生まれ、1958年に家を出ることになった。わずかな所持金だけで飛び出したので、すぐに働かねばならない。ということで、最初はいけばなで食おうとしたらしい。私との対談で彼は次のように語っている
2023 年10月25日/記 (敬称省略) 下田は昭和4(1929)年10月生まれ。2年後には満州事変、そのあと昭和12年の日中戦争、昭和16年の太平洋戦争へと続く。戦争が終結した昭和20(1945)年8月には15歳だったから、幼年期、少年期をまるごと戦時下で過ごしたことになる。 下田尚利の平和主義 下田の基本姿勢の一つが「平和主義」である。ただし、戦時下で暮らした体験を背景とする信念であり、強靱というだけでなく、その姿勢には理屈を超えたところがある。天
2023年9月1日/記 (敬称省略) いけばな関係者であれば、いけばな人口の減少は周知の事柄である。それでも前回の考察で明らかにした激減の数値には驚かれたのではないか。総務省「社会生活基本調査」を基にした統計で、15歳以上の国民の行動率を見てみたのだが、大変なことになっていた。35年間で、いけばなをやろうとする人が5分の1になり、25歳~29歳の層では、なんと23分の1になってしまっているのだ。 こんな現実など見たくないと思う人も多いだろう。しかし、目をそらしても、
2023年8月5日/記 (敬称省略) いけばな人口の激減は、いけばな界の大問題である。いけばなに直接の関わりがない人でも、日本文化の一部門がいずれ存続の危機に見舞われると聞けば、無関心というわけにはいかないのではないか。いけばな人口激減は、日本文化の大きな変質の表徴でもある。前にもこの問題について小論を書いているが、今回、新しい数値情報を入手したので、その数値を加えて書き直すことにした。 戦後、いけばなが大流行 いけばな人口、すなわちいけばなを学んでいる人
2023年5月24日/記 (敬称省略) 2019年2月10日、本当に寒い日だった。東京都中野区の新井薬師梅昭院で行われた葬儀で、私は下田尚利を見送った。亡くなったのは前年の12月だが、この日は大和花道家元としての流派葬だったのである。彼はいけばなの家元であり、しかも前衛いけばなの旗手であった。 戦後の前衛いけばな運動の中で、もっとも若い世代を代表したのが「新世代集団」である。メンバーは工藤昌伸、重森弘淹、勅使河原宏、そして下田尚利の4人。しかし、皆死去し、最後に残ったの
2023年5月1日/記 (敬称省略) 10年ほど前のこと、なに気なく、ひらがなの「みずたにたかし」でエゴサーチをしたことがある。すると水谷孝の名前を発見し、あの「彼」かと、1969年頃の「彼」の風貌を思い出した。その後どうしたのかが気になり、サーチを続けた。その結果、一般のメディアには登場しないものの、独自の姿勢を貫いて音楽活動を続けていたことや、水谷が中心メンバーである「裸のラリーズ」は、伝説のロックバンドになっていることを知った。 私は音楽にうとく、水谷孝について
2023年3月1日/記 (敬称省略) 1973年、当時の私は工学部から転部して文学部文化学科の美学専攻の学生になっていた。ある日、専任講師の中村敬治から『同志社美学』の編集を頼まれた。美学専攻学生の公式の雑誌であり、なぜ転部した私が依頼を受けたのか、それにはあの時代独特の事情があったのである。 美学への転部 その数年前、たぶん1969年、工学部の事務所を占拠するということで、なぜか駆り出された。ヘルメットを被って事務所に突入した光景だけは憶えている。その直後に、美
2023年2月10日/記 (敬称省略) 雑誌『ゐまあごを』に参加したのは、大学7年生の時だった。当然ここで「7年生って何?」となるが、私の場合、1966年に入学してから8年間、人の二倍、しっかり学んだのである。ありていに言えば留年を重ねたわけだが、背景に様々な要因があった、と言い訳をしておこう。 自ら希望して入った工学部だったが、体質的に合わなかった。さらに部活動、学生運動、文学部(美学)への転部、等々がある。学内エピソードだけでも雑言体に10回、いや20回くらい書け
2022年12月1日/記 準備中なのに、何? ブログ開設から1ヵ月が過ぎた。公式開設日を11月1日にしているからそうなるが、実際には準備のために9月中旬から終末論の一部掲載を始めていた。そしたら、準備中なのに3週間くらいで閲覧数が500件を超えたのである。ブログ事情に疎いので、「へえー、意外に多いな」というのがその時の感想である。ところが「終末論から読み解くバンクシー」の掲載を始めると閲覧は激増し、一気に1万人を超え、開設日の前には1万7千件を超えたのである。 「ちょ
2022年11月1日/記 (敬称省略) それが何であれ、客観的に書くのは重要だが、自分が直接体験した物事については少しばかり自分の方に引き寄せて書いてもよいし、それはそれで意味があるのではないか。時にはプライベートなことにも触れると宣言した「雑言体」だから、試してみよう。その第一弾が山下信子との交友である。研究ではないので、曖昧な記述もある。ご容赦を! まずは雑言体01に記録写真を掲載したパフォーマンス(1972年)について触れておこう。当時はハプニングと呼ばれていた、
2022年6月29日/記 このバンクシー論では、限られた情報からバンクシー像をイメージして、それを頭のどこかにおきながら、あれやこれやと分析している。人物自体が仮の設定であり、仮説、そこに分析という仮説を重ねるのだから仮説×仮説である。ただ、仮のバンクシー像を設定することで、普段はあまり考えなかった事柄に関心が生まれ、思いがけない考察に導かれることもある。もしかすると、そちら方面の成果があるかもしれない。 さて、バンクシーはイギリス生まれというのが一般的な説である。が、
2022年1月26日/記 このバンクシー論では、バンクシーが生み出しているのは「アート力を活用した表現作品、より高度化したグラフィティワークである」との結論に至った。バンクシー作品の基本は非芸術的表現だと判断したのである。芸術性を疑って取り組んだ論考なわけだから、これは想定内の結論であり、自分としてはすっきりした気持ちになった。しかし、じゃあ、これで終わりかというと、そうではない。すぐにその結論に関わる諸問題が頭をもたげてくるからである。・・・もう少し先に進んでみよう。
2021年7月15日/記 くそ作品に気をつけろ バンクシーがイギリスの国立美術館テート・ブリテンに作品を持ち込んで、勝手に展示した事件を思い起こそう(図1)。2003年のことだ。社会風刺的な絵画作品を展示したのであるが、その作品の風刺内容だけではおそらく話題にならなかっただろう。監視の目をくぐって展示してしまうという、その痛快さがあってインパクトをもったものと思われる。まあ、全体として一つのパフォーマンス作品のようなものだ。 初めてこの無断展示の情報に触れた時、「売