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05|最後の前衛いけばな人、下田尚利 ③

2023年12月16日/記
(敬称省略)


 下田らは1973年に月刊誌『いけばな批評』を創刊する。雑誌刊行には、かつての挫折へのリベンジといった色合いが濃厚にある。下田らの挫折以後を、いけばな界の動きとともに、再検証してみたい。

いけばな界を離れて

 下田尚利は、父親との間に確執が生まれ、1958年に家を出ることになった。わずかな所持金だけで飛び出したので、すぐに働かねばならない。ということで、最初はいけばなで食おうとしたらしい。私との対談で彼は次のように語っている
 
◆「生花店の小さな教場とか、ショーウインドーの飾り付けや、連れ込み旅館で花をいけたりして、なんとか食いつないでいた。その頃、中川幸夫もそんなことやっていたのね。住んでいるところも近くて、励まし合って頑張ろう、みたいな話だった。家内もアルバイトで電通に勤め始めたけど、とても食えるもんじゃないですよ」 (対談「道行」) 
 
 さらに追い打ちをかけるように、下田が関わっていた「集団オブジェ」が解散し、仲間がいる最後の場所が失われ、孤立状態になる。1960年に下田は写真の会社の社員となり、5年後に広告制作会社を起業した。いけばなとは別世界で生きていく道を選んだわけである。そのため新しい仕事に忙殺され、いけばなに関わる余裕がなくなった。
 いや、余裕という問題だけではない。「街でいけばな展の看板に出会っても、目を背けて通り過ぎた」とも語っている。見るぐらいの暇はあったはずだが、ワザと目をふさいだのであろう。屈折した心情が覗える。
 
 新世代集団のメンバーのうち、工藤昌伸は早くからいけばな界に復帰した。前回分析したとおり、「獅子身中の虫」になるため、というのが私の見方である。
 勅使河原宏は、自分の関心事の変化として、早くから映画への道を見つけていたので、傷は浅かった。また、草月流から離れたわけではなく、とくに草月アートセンターの運営などでは、彼の才能と人脈をフルに生かす活躍をした。才能、財力、チャンスに恵まれた、いろいろな意味での幸運児だったのである。
 

前衛いけばな時代への未練

 下田と同様に別の道を選んだのは重森弘淹である。『いけばな芸術』の廃刊後、写真評論に転身し、さらに1958年に「東京フォトスクール」を創立し、1960年には「東京綜合写真専門学校」に発展させた。『いけばな芸術』廃刊が1955年だから、瞬く間に起業したことになる。高度経済成長期という時代の勢いもあるのだろうが、それにしても、重森の能力の高さや努力の凄さには感心するほかない。
 ただ、下田と同様、彼もいけばなに対して複雑な気持ちを抱えることになったようである。のちに触れる『いけばな批評』に書いたエッセイで、『いけばな芸術』廃刊後の気持ちを回想している。
 
◆「いけばなの前衛運動もいつの頃からか頭打ちになり、そのいらだちが編集内容を急進化させ、雑誌の売れゆきも落ちた。もうこの世界はタクサンだという気になったのである。しかし、いけばな界から去っても、いけばなから去ったつもりはなかった。
 それでも、いけばな展を見なくなった。いけばな界の人にも会いたくなかった。自分の体からいけばなという憑きモノが落ちてみると、逆にいけばなに対して気楽になってきた。いけばなは見なくなったが、『私のいけばな』はときどき幻想としてふくらむようになった」 (「いけばな批評のすすめ」注1)
 
 重森は、もともとは文学志望だったから、いけばなとの関わりは、父親の重森三玲が創刊した雑誌『いけばな芸術』の編集を担った、6年足らずに過ぎない。しかし、雑誌が廃刊したからといって、じゃあ軽い気持ちで転職というわけにはいかなかった。未練を残し残しての撤退だったのである。1950年代前半期の前衛いけばな体験がいかに強烈だったかを物語っている。

(注1)「いけばな批評のすすめ」『いけばな批評』1973年5月号(創刊号)


月刊『いけばな批評』の創刊

 議論の広場を目指した「現代いけばな懇話会」は、1969年10月に第1回が開催され、1972年3月の第7回を最後に解散となった。この懇話会を通して、下田、工藤、重森が再結集した意義は大きい。下田は約10年ぶり、重森に至っては約15年ぶりのいけばな界復帰であった。そして1973年5月には月刊誌『いけばな批評』(王立出版社、以後『批評』)を創刊する。編集同人は北條明直が加わった4名である。
 
 北條明直(1923~2004)は、前衛運動に関わった人ではなく、もともとは文部省主催によるいけばな展を担当した役人だった。その展覧会がきっかけでいけばなに関心をもち、批評や研究をして多数の著書を出している。『批評』の創刊当時は、「日本華道大学(のち、いけばな造形大学)」を創設し、いけばな界の改革を目指していた頃で、それで下田らと共闘するようになったものと思われる。
 北條はなかなか多彩な人で、文部省退職後は跡見学園女子大の教員、記録映画などの脚本家、伝統工芸の研究家、フラワーデザイン専門学校校長などの活動がある。私より25歳ほど年長だったが、少しばかり交際があり、亡くなってから本人名義の挨拶状が届いたことを思い出す。生前のお付き合いに対するお礼と、あの世で楽しく暮らしているとの報告が書いてあった。粋な人であった。 
 
 『批評』の同人たちは、いけばなで食べていたわけではないし、批評の収入などないに等しい。そして創刊当時の年齢は40代後半といった辺りで、皆、働き盛りだった。彼らはそれぞれの場をもち、それだけでも忙しいのだから、雑誌の刊行には最初から無理があった。1976年3月号で終刊となり、発行期間はわずか3年という短命だった。
 ところが、功績は大で、いけばなの歴史的転換期に重要な役割を果たした。バラバラに胎動を始めていた現代いけばなに批評を加えることで、活動に自覚を与えていったのである。最初の一手が創刊号の誌上個展で中川幸夫を登場させたことであり、これにより新しい時代の幕開けを印象づけた。


主役交代、蒼風から中川へ

 この雑誌でもっとも目立つ箇所は誌上個展シリーズである。巻頭で作品を紹介し、記事の方で作家と下田の対談を掲載する形で続けられた。第1回に中川幸夫を登場させたのは、下田の意志はもちろんのこと、おそらく『批評』同人全員の総意であり、中川を時代の主役に押し上げようとしたものと思われる。
 前衛時代のスターは蒼風であったが、『いけばな芸術』誌が新人の中川を発見し、蒼風に対抗できる、一歩手前まで育てた。しかし前衛運動は挫折、その後を図式的に語れば、世界的名声と富をわが物としていく蒼風がいて、貧困の中で創作に邁進する中川がいた、ということになる。
 
 蒼風に対する評価は、実にむずかしい。鉄の廃材などを大胆に使った《汽関車》(図1)をはじめ、様々なタイプの代表作があるが、いけばなを、ジャポニスムの文脈ではなく、現代表現として初めて国際的に認めさせた人物である。私は下田としばしば蒼風について話し合って、彼が蒼風のことを心の底から敬愛していると感じた。

 しかし、蒼風は、草月流の家元であり、家元が前衛という奇妙な現象を代表する人物である。前衛活動をした家元は蒼風だけではない。そうした家元たちが熱心に門下を指導するものだから、いけばな界に前衛風の亜流作品が氾濫する結果となった。蒼風は亜流氾濫の元凶ということにもなる。
 また、いけばなの大衆化に伴い、流派は拡大して莫大な収益をえるようになり、草月流などは巨額の脱税事件を起こすに至った。蒼風には功罪があって、手放しでは賞賛できないのである。
 このような功罪を熟知した上での尊敬や敬愛が、下田を典型として、工藤や重森にもあったように思う。

(図1)勅使河原蒼風《汽関車》1951年、鉄、パンパス、菊、しゅろの実

 一方、中川の方は、重森三玲門下として前衛運動の一翼を担い、新世代集団と共闘した過去がある。その中川は、下田が「流派もない、弟子もない、たったひとりで花をいける、それで生き抜いていくのは大変ですよ。しかし、やり通した」(対談「道行」)、と感嘆する生き方をしていた。下田をはじめとする『批評』メンバーは、蒼風から中川へと、主役交代の時期だと考えていたのではないか。創刊号にはそんな気持ちが込められていたと思われる。


中川幸夫の植物回帰

 蒼風個人は勢いを失っていなかったが、家元たちのリードで蔓延した、鉄や石やらを多用する造形重視のいけばなは、1960年代初期に限界に達していた。そして植物回帰、自然重視の機運が高まってきたのである。植物はいけばなのアイデンティティーに関わることだから当然なのだが、古いいけばな形式に回帰したのでは創造性を失うだけだ。この課題に早くから取り組んでいたのが、実は中川だったのである。
 
 新しい目で植物を捉え、そこから新しい表現を導き出すこと。『いけばな芸術』1954年1月号に掲載されたカラタチ(図2)がそうだ。わざと「原寸大」と断って誌面に掲載していることからも分かるように、カラタチを間近から見詰め直し、その力強く、凜々しい姿を再発見させるのである。そうした方向で、初期代表作《二つの門》(図3)が生まれている。
 早くから写真による作品発表を意識していた中川ゆえに到達した方法だが、植物をクローズアップすることで、普段は見逃すような植物の相貌を捉えている。そして、その後も植物の新しい見方に自分の表現を重ねていく。

(図2)中川幸夫の連載「新いけばな入門」第1回に掲載されたカラタチ、<原寸大>とのキャプションがある。
(図3)中川幸夫《二つの門》1954年、カラタチ


 こうした植物回帰は一足飛びに前進したわけではない。時間をかけて取り組み、葛藤し、のちには植物を「ねじ伏せ」てでも新しい相貌を引き出すようになる。『批評』創刊号の誌上個展で発表された《花坊主》(図4)などはその典型であり、中川と言えばこの作品、というほどの代表作になった。自家製のガラス器に入れられた900本のカーネーションが発酵し、血のような花液を流し続ける、インパクトの強い作品である。

(図4)誌上個展で発表された《花坊主》1973年 自作ガラス器、カーネーション。(作品は見開き1ページに横向きに掲載)

 誌上個展の関連対談「覗きからくり」で、下田の問いに答えて、中川は創作の核心部分を語っている。

下田 (前略) そうすると、やはりあなたにとって花というのは、あなたの意思にむりやりにいうことを聞かせる相手というか・・・。
中川 ねじ伏せる。
下田 ねじ伏せるものなわけ? ああ、そうか、ねじ伏せる相手だ。
中川 まあ、そういうところはあるよ。それがすべてというと、どうか・・・。
下田 しかし、やはり本気でやっていけばやっていくほど強力な相手だと思う?
中川 相手だと思う。花は勁し・・・・だな。
(中略)
下田 しかしね。あなたにとっては、そうして花をねじ伏せてこういうものができたというその格闘自体に、意味があるんじゃなくて、花をいけるという行為を含めたあなたの生活のすべて――すなわちあなたの生き様みたいなものが基本なわけ?
中川 そうです。そして葛藤の結果、意外に発見し、また新しく展開していく。その追求が私の生きがいなんだ。
下田 そういう考え方の展開の中に、あなたの「いけばなは自分の生きるあかしだ」といういい方が出て来るわけだ。(後略)
(対談「覗きからくり」注3)
 
 当時の中川は無名というわけではなかった。ただ、貧乏物語の主人公としてマスコミに取り上げられるなど、どちらかと言えば異端者扱いであった。いけばな界では、一部の人が蒼風に匹敵する実力者と評価していたが、いかんせん時代は変わっていた。前衛時代は過去の物語になっていたのである。
 そこに強烈なインパクトのある作品が『批評』創刊号の巻頭に掲載され、対談では中川独自の考えを伝えた。多くの次世代いけばな人がこの創刊号で、あらためて衝撃を受けたものと思われる。

(注3)下田尚利が担当した連載対談「覗きからくり」、第1回中川幸夫  『いけばな批評』1973年5月号(創刊号)

現代いけばなの成立

 「現代いけばな」の始まりは、1970年頃と見てよいだろう。この頃から新しい動きが始まっているからだ。新しい動きは、まずは流派内のグループ活動として登場してくる。
 工藤昌伸によると、龍生派内部では、1968年に結成された「グループ亜土」が吉村隆、大坪光泉、梅沢椿などを中心に、植物素材による新しい造形を目指して活動していたという。1970年には古流松藤会の長井理一らの「グループDAN」の第1回展が開催された。また、立原広明、沢井剛の二人展なども注目を集めたようだ。
 東京中心の展開だが、関西にも独自の動きがあったし、富山ではさかいゆきおの活動、石川県では超流派の「いけ花新進会」が生まれるなど、新しい動きは全国に広がっていた。
 1973年に大坪光泉、立原広明、沢井剛らを中心にした、流派横断の「❜73いけばなアンデパンダン」展が開かれた。翌74年、やはり流派を横断して、吉村隆、早川研一、粕谷明弘、沢井剛、立原広明、長井理一、大坪光泉、千羽理芳(図5)が「いけばな八人の会」展に結集し、新しい動きの核となった。そして、その八人の会が中心になって、76年にアンデパンダン形式の「いけばな公募展」が発足した。

 新しいいけばなを目指す動きが登場し、だんだん流派を超えた動きになっていく。しかし、いけばな界が新時代を自覚するためには批評が必要であり、その意味でもっとも適切な時期に雑誌『批評』が登場したことになる。前衛時代の雑誌『いけばな芸術』の再来と言ってもよいだろう。

(図5)1974年「いけばな八人の会」展での千羽理芳の出品作《柳》、陶器、六角柳

 当然ながら現代いけばなといっても多様だ。ただ、主要な動きを見ると、鉄や石やらを多用した前衛時代の造形いけばなからは距離を置く傾向が強い。植物素材に起点をもどすのである。
 1975年、いけばな八人の会が関西や富山の4人を加えて開催した「植物十二人展」では、展覧会名に「植物」という言葉を入れることで、植物回帰を明確に宣言している。
 これが単なる従来のいけばなへの回帰ではないことは、その案内状を読めば分かる。こう書かれている、「切りきざまれる植物・測定される植物・堆積される植物・なでさすられる植物・植物の生命を吹き込まれた金属・増殖してゆく植物・・・・・・が匂いを嗅ぎ合うように自然に集ってしまったのです」(注4)と。
 漠とした観念の植物ではなく、植物素材個々が今までにない見方で観察され、いけばな作品に投入されることになる。金属も否定せず、「植物の生命を吹き込まれた」と断ることで、前衛時代からの発展的継承を匂わせている。

 こうした方向性において、中川幸夫が先駆的であることは明らかだし、1970年代には高度に完成された表現に至っていた。それを次世代に突き付けたわけだから、時代の主役になったのは当然のことだった。 
 ただ、ちょっと断っておきたいが、主役といっても、中川は家元でも何でもなく、流派なし弟子なしの一作家にすぎないので、いけばな界全体に影響を与えるような存在ではない。あくまで創造性を重視する進歩的ないけばな人にとっての主役である。

 そもそもいけばな全体が他ジャンルや世間から軽く見られる傾向が強かった。1960年代に、蒼風は、美術界の誰もなしえなかった国際的評価を手にしたが、国内ではなかなか認められなかった。「あれはオハナであって、芸術じゃない」といった、蔑視があったためだと思われる。
 中川の場合、評価はもっと遅れ、他ジャンルや世間一般から熱狂的な評価を受けるのはずっとのちのことだ。長い間、孤立した寂しい主役だったのである。「いけばなということで、どれほど冷遇されたか」といった意味の恨み言を、直接本人から聞いたことがある。 

(注4)工藤昌伸『日本いけばな文化史5』同朋舎出版、1995年刊による。


現代いけばなを受け入れる

 下田は、1969年の「いけばなを喰う会」では、前衛いけばなに対する次世代の無理解に腹を立てたのだが、その後、テーマ性いけばなからの脱却を模索し、政治と芸術を切り離す考え方に傾く。政治を捨てたのではなく、芸術は芸術、政治は政治で闘うほかないとするのである。 
 だからといって、現代いけばなを受け入れるかどうかのハードルは、けっこう高かったのではないか。下田によれば、大坪光泉が1971年に発表した《龍生展のゴミ1/5》(図6)が大きなきっかけだったという。
 私は下田に尋ねた、「新世代集団が持っていたような社会性がこの作品にはないですよね」と。彼は、この作品に出会ったことで、「私の中で、すでに力を失いながら、まだ整理がつかないでいた『50年代前衛挿花』『テーマ性いけばな』『社会主義リアリズム』といった信条へのこだわりが、ゆったり溶けていったんだな」(対談「道行」」)と答えた。

 大坪光泉(1939~)は当時もっとも注目を集めた次世代いけばな人であり、『批評』の誌上個展でも早い時期に作品が紹介されている(図7)。

(図6)大坪光泉《龍生展のゴミ1/5》1971年、麻袋、植物
(図7)誌上個展で紹介された大坪光泉《O氏の朝食》1973年、チューリップ、菜の花、金魚草他(『いけばな批評』1974年1月号)

 大坪を始めとする次世代の現代いけばな作品が下田を納得させる内容をもっていたことは確かであろう。ただ、彼の信条が本当に溶けていったのかどうか。もちろん、この頃の下田は、自分の立ち位置をいけばな評論家に定め、次世代を応援しようとしていた。それでも、あくまで私の感触だが、溶けきれないモノの存在を感じてしまうのである。どこかに無理を抱えた道行だったのではないか。
 次世代の人たちには、いけばな界に対する不満はあったものの、社会変革といった次元での意識は薄かったと思われる。下田の方は、「政治と芸術とは別次元」と考えるようになったものの、社会変革を無用と考えていたわけではなく、関心は高かった。その方面での問題意識を次世代と共有することができないまま、先を急いだのだと私は見ている。

 しかし、下田たち『批評』メンバーが、台頭してきた次世代の動きを受け入れ、批評し、活動に自覚を与えていったことは、次世代にとって大きな援護になったと私は思う。単なるバラバラの動きだったら、一時は注目されても、いつの間にかいけばな界の隅に追いやられ、個々に消滅していったはずである。
 とくに注目したいのは、『批評』メンバーが流派社会の改革を重要視していた人たちだったことである。門閥主義、強固な上下関係、同調圧力、等々を押しやって、優れた人材や作品に批評の光を当てていった。『批評』は短命だったが、現代いけばなの土台整備に貢献した功績は大きい。

  1980年に「現代いけばな美術館」展が開催された。通常ならこうした大規模な展覧会の場合、運営委員の大半を家元たちが占めるのだが、それが一変する。外部委員を除けば、下田、重森、宏といった前衛時代の人たちと、大坪光泉、小泉道生、千羽理芳、長井理一、早川研一、吉村隆という、現代いけばな活動で頭角を現してきた次世代いけばな人ばかりである。

  この展覧会は、下田によれば、会場全体がごったがえすような熱気と緊張に満ちていたとのことだ。ただ、大方の作品の現場制作が佳境を迎える頃、長井理一(1948?~)のスペースがカラのままだった。どうしたんだと皆が気をもみ始めた時、古ぼけた屋台をガラゴロ引きずって長井が現れた。
 屋台に吊るされた赤提灯には「自己流いけばな教室」とあり、お品書きには「花展指導料」「花展代作料」など、業界の裏稼業の代金が書き連ねてあった(図8)。下田は、思わず苦笑いして深く納得、そして「傑作だ」と評価した。(対談「道行」)。

長井理一《マイ・イケバナ・ライフ・パロディエ〈人間と花の接点〉より 》1980年

 長井作品は、植物回帰とは別傾向の現代いけばな作品だが、当時のいけばな界の活気ある空気を象徴する作品であった。いけばな界の改革を願っていた下田は、この愉快な場に「いけばな評論家」として立ち会うことができたのである。
 
 こうして下田は、家元後継ぎ、前衛いけばな作家、挫折、会社社長、いけばな評論家と、「けつまろびつ」の道を歩んできたわけだ。それでもまだ道半ばで、次に家元継承の大舞台が待っているのである。


図版出典

図1『草月とその時代1945~1970』草月とその時代展実行委員会、1998年。
図2『いけばな芸術』1954年1月号。
図3『華 中川幸夫作品集』求龍堂、1977年。
図4『いけばな批評』1973年5月号(創刊号)。
図5『現代のフラワー・アーテイスト 千羽理芳』京都書院、1995年。
図6  大坪光泉『PLANT & MAN』大坪光泉作品集刊行会、1981年。
図7『いけばな批評』1974年1月号。
図8  工藤昌伸『日本いけばな文化史5』同朋舎出版、1995年。


(最後の前衛いけばな人、下田尚利 ③ おわり)
 


⇐ 最後の前衛いけばな人、下田尚利④

最後の前衛いけばな人、下田尚利 ② ⇒


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