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04|最後の前衛いけばな人、下田尚利 ②

 2023 年10月25日/記  
(敬称省略)   


 下田は昭和4(1929)年10月生まれ。2年後には満州事変、そのあと昭和12年の日中戦争、昭和16年の太平洋戦争へと続く。戦争が終結した昭和20(1945)年8月には15歳だったから、幼年期、少年期をまるごと戦時下で過ごしたことになる。

下田尚利の平和主義

 下田の基本姿勢の一つが「平和主義」である。ただし、戦時下で暮らした体験を背景とする信念であり、強靱というだけでなく、その姿勢には理屈を超えたところがある。天皇に対しても、私などは天皇制の構造的問題として捉えるが、彼にとってそれは一般論にすぎない。彼の場合、幼少年期に心から信じ、導かれもした天皇裕仁、その人が問題の核心なのである。
 
 下田の作品集に載せるための対談「けつまろびつの道行みちゆき」(注1、以降「道行」)で、戦時下での少年というのは、どんな気持ちで生きていたかを聞いた。すると、二十歳になったら出征して死ぬんだと思っていたと、この世代特有の答えが返ってきた。
 
◆「それこそ天皇陛下のために死ぬんだと。だから戦争が終わった時、昭和天皇が自刃しないというのが信じられなくて、それだけは許せないという思いは・・・。あの気持ちはあとの世代の人と話してもわかってもらえないね。こればっかりは伝わらない」。
 80代後半に至った人の、なお生々しい感情であり、発言であった。
 
 下田の気持ちが伝わることはむずかしい、時代が違う、孤立するよな、と思いながら私は彼の話を聞いていた。
 その対談は7年ほど前ことだが、しかし、今、どうだろう。例えばウクライナに侵略したロシアでは、反戦運動の弾圧、情報統制、教育によってマインドコントロールが国民に刻々と浸透していく。とりわけ子供たちへの影響は深刻であろうし、下田の幼少年期と重なる風景がそこにはある。一応は民主的な体制をとっている国で、こうなのだ。強権統制の国々ではなおさらということになる。もちろん戦争そのものが悲惨である。が、本当のことを知らされないまま、事実上の思考停止に追い込まれるのも怖いことだ。
 
 それは他人事なのだろうか。日本では、自由が保証されているにしても、見え見えの忖度と隠ぺいがまかり通っているし、情報メディアの劣化が進み、国民が知らない、知ろうとしない内に物事が進行していく。一方では、人々の間で寛容さが失われ、異論排除を目的とした無意味なディベートがやたらと増えてきた。そして末節の議論ばかりがエンターテインメント化され、消費されている。
 かなり危ないところにきている。じわりじわりと水没していくような感覚に襲われながらも、これが日本なのだと、無気力になる自分の精神の弱さを痛感する。下田の平和主義の強靱さが、むしろ、これからの時代に必要だという思いがしてくる。

(注1) 「倒けつ転びつの道行」『いけばなと私 下田尚利』求龍堂、2016年刊。 


状況に深く関わる表現

 下田は1949年に早稲田大学の文学部芸術学科に入学するが、翌年には「早大事件」(注2)で逮捕され、退学処分(1年後復学)となる。彼の平和主義は、こうした学生運動にも向けられたが、この頃から主にいけばなに向けられた。在学中だけを見ても、超流派の研究会「いけばな創々社」(注3)に参加、「新世代集団」結成に参加、「平和のための美術展」(注4)に毎年出品、等々の活発な活動をしている。そして1954年に早大を卒業した。
 この内、下田にとって決定的な意味をもったのが、前回も触れた、第3の前衛潮流と言ってよい「新世代集団」である。社会に目を向ける「テーマ性いけばな」を展開したが、前衛いけばな運動の退潮とともに挫折、その活動はわずか5年ほどだった。一番年少の下田は、その後も「平和美術展」「集団オブジェ展」(注5)などに出品を続けたが、1960年、写真の会社に勤務したのを機会に、一切のいけばな活動を停止した。
 
 いろいろな問題が未解決のまま残された。テーマ性いけばなとは何かもその一つであり、社会主義リアリズムとの関連で語られることもあるが、明確とは言い難い。私は対談「道行」で下田に、今風に言えばメッセージ性みたいなものなのかと尋ねた。すると「今の社会に責任を持った作品をつくろう、ということなんだよね。こういう社会状況の中で生きている以上、その状況に深く関わる表現をしないで、何をつくるんだという。アンガージュマンなんだろうな」と、彼は答えた。
 
 いけばな作品で社会の諸問題に迫ることは、かなり難しかったと思われる。テーマ性いけばなには社会に対する怒り、批判、反抗、等々の漠とした感情が込められているといった特徴は見られるし、下田の《暗い眼》《被害者》《顔》等の作品にもそれはある。が、いわゆるイデオロギー色という点では、良くも悪くも、薄いのである。 

『いけばな芸術』1953年3月号に誌上発表された下田尚利の《暗い眼》は、作者の言葉も掲載され、当時の下田の考えを伝えている。                        
                下田尚利《被害者》1955年「新世代集団展」
下田尚利《顔》1957年「平和美術展」                

(注2) 「早大事件」 連合国占領下で共産主義の支持者とみなされた公務員や民間人が強制的に退職させられるレッドパージが進められた。これに反対する学生大会が1950年10月17日に早大構内で行われたが、警察が出動して大きな事件となった。
(注3) 「いけばな創々社」 戦前の「第二日曜会」をルーツとした超流派の研究会で展覧会も開催した。様々な流派から、新しいいけばなを志す人たちが参加した。
(注4) 「平和のための美術展」 1952年に東京都美術館で開催され、若手から大家まで幅広い層が参加した。のち「平和美術展」として全国各地に広がった。
(注5) 「集団オブジェ展」 いけばな専門紙『日本女性新聞』の編集長だった富田二郎(のちの脚本家・早坂暁)が動いて組織。吉村華泉、中川幸夫、半田唄子、工藤昌伸、工藤和彦らが参加。


テーマ性いけばなからの脱却

 テーマ性について下田は、1970年頃には、自問するようになる。雑誌『いけばな批評』のある対談(注6)で、その考えを述べている。
 
◆「しかし、どう考えても芸術というのは、日常の世界にストレートに働きかけるものじゃない。現実の政治とか世直しみたいなものには結びつかない」「近ごろ、ぼくはね、政治に対してはやはり政治で闘わなければダメだという気がしてきているんだよ」(「連載対談・覗きからくり」)

 また、同誌に書いたエッセイ「一つの大きな日本の文化的なもの・・・?」でも同様な意見を述べている。そこでは、政治面での改革は必要だとしながらも、「政治と芸術とは、別の次元の行為であり、お互いに理解は成立しない」とまで語っている。この頃、テーマ性いけばなからの脱却を必死に試み、それが以後の彼の基本的な方向性となる。
 例えば、かなりのちの1986年発行の著書『なぜ花をいけるか』(注7)でも、自問が続く。その中に、「ひたすら作品の『意味』の世界を追求する傾向」と記しているところがあるが、これはテーマ性いけばなのことだ。下田は、次のように記す。
 
◆「人間はものを考えるとき、ことばで考えます。だから『意味』を伝えるのにはことばによる表現のほうが強いし、確実です。『形』を扱う芸術——美術が『意味』を伝えることにこだわるのはたいへん危険です。ヘタをすると、説明的な絵解き——菊人形みたいな表現になって、意味は伝わっても、美しさ、楽しさとは無縁のものになってしまいます」
 
 テーマ性いけばなへの反省とともに、ルポルタージュ的な美術作品への疑念も含まれているものと思われる。なるほど、いけばなであれ美術であれ、柔軟性のない教条的な「意味」だけにこだわるのは、表現として危険だし、面白くもない。
   とはいえ、社会の諸問題を真正面から見つめて表現しようとした当時の熱情と作品の意義を否定することがあってはならないと思う。下田は、テーマ性いけばなに生涯愛着をもちながらも、挫折の傷が癒えないために、かえって本人自らがテーマ性いけばなを過少評価している、と私には見えた。 

(注6) 「連載対談・覗きからくり」『いけばな批評』1973年5月号(創刊号)、王立出版社。中川幸夫との対談。
(注7)下田尚利『なぜ花をいけるか』講談社、1986年刊。 


いけばな界復帰

 下田のいけばな界復帰は、意外な形で実現した。それはこうだ。広告会社を起業して、社長業で忙殺されていたが、ある日、「いけばなを喰う会」(以降は「喰う会」)開催の案内状が突然届いた。そして下田は、1969年2月に開催された50人ほどの集まりに参加する。
 「僕は10年の空白があるから、知った顔が少ない。なぜか僕と中川幸夫、工藤昌伸が上座」に据えられたが、「話の糸口がつかめなくて、とうとう喧嘩になってしまった」(対談「道行」)という。前衛運動の未体験派が多数だったのか、下田には、彼らの前衛運動への無理解が我慢ならなかったようである。先に触れたテーマ性いけばなからの脱却は、こうした次世代との葛藤がきっかけの一つだったのかもしれない。
 下田だけでなく、中川は中川で、誰かと喧嘩を始めていたらしい。ただ、これだけ多数集まったのは、現状をなんとかしたい、何か始めたいと皆が考えているわけだから、世話人を選んでじっくり考えようということになったらしい。そして下田も世話人の一人に選ばれた。
 
 ここから「現代いけばな懇話会」が生まれ、その年の10月には日仏会館で中川幸夫の講演と討論会を組み合わせる内容で第1回懇話会を行った。その後もいろいろ工夫しながら、1972年3月の第7回まで開催した。
 意欲的な取り組みを試みたが、経費をまかなうために入場チケットの販売を各流派に頼った。そのため、どうしても受け身タイプの参加者が増える結果となり、話が一方通行に流れて、議論が盛り上がらなかったらしい。

 ただ、次の時代への踏み台になった。例えば、第7回の「いけばなに挑戦する・二十代の発言」では次世代の中の最若手を登壇させ、前面に押し出した。保守的ないけばな界の通常の序列を無視した、大胆な用法であり、いけばな界改革に向けた懇話会の強い意志を伝えている。なるほど、「喰う会」では、かつての前衛運動の担い手と次世代との違いが浮上したが、ここから両者の交流が始まったわけである。時代が動き始めたのである。
 

仮説「いけばなを喰う会」の真犯人

 ここで少しばかり道草をさせてもらおう———前衛いけばなから現代いけばなへの大きな転換点にあるのが「喰う会」であり、名称も一癖あって、興味深い。ところが誰がどんな意図で企画したのか、未だに不明なのである。
 10年の空白がある下田、そしていけばな界とはほとんど絶縁していた中川を呼び出し、上座に据えた、それは一体誰なのか。いろいろ考えてみると、どうも怪しいのは工藤昌伸である。もちろん、まったくの仮説である。ただ、いけばな史上の転換点を象徴する集まりなので、あえて推理しておきたい。
 
 下田が「喰う会」の詳しい事情については知らないというので、工藤の著書を調べてみたら、肝心なところを下田が書いた文章の引用ですましている。その引用された文章には、下田が直接私に語ってくれた内容以上の情報はない。知らないのだから当然である。
 当時の事情をもっとも知っているのは間違いなく工藤だし、記憶力も「超人的」だったという人だ。そんな工藤が自分で書いていないこと自体が怪しい。それでいて工藤は、下田との対談(注9)で、「『いけばなを喰う会』っていうのは、大変面白い名前だった」と言い出し、名称について嬉しそうに解説している。まるで自画自賛のようだ。
 
 工藤だとしたら、なぜ名乗らなかったのかだが、当時の工藤は全国の流派が参加する最大団体「日本いけばな芸術協会」(以後「いけ芸」)の事務局長になっていたか、なる直前の位置にいた。この「いけ芸」が成立した背景には次のような事情があった。
 1950年代以降、いけばな人口が急増し、入門者の厳しい争奪戦となった。しかし、増加が落ち着きを見せ始めた頃、流派間の過当競争を避けようと、安定志向が生まれた。そして1966年に、流派が団結(妥協)するために「いけ芸」が誕生するわけである。
 多くの流派が参加したのは、中小の流派にとっても何らかのメリットがあったからであろう。ただ、結局のところ大流派中心のいけばな界が固定化し、保守化もしていく。そんな中で「喰う会」が招集されたのである。工藤は先ほどの対談で次のように語っている。
 
◆「高度経済成長期に池坊、草月、小原が体制を固め、圧倒的なシェアを占める。ですから『いけばなを喰う会』に参加した人たちは大流派にはいないはずなんですよ。これに飽き足らない人たち、大流ではない流派の家元たちや、それから流派内のいわゆる若手がいる。私なんかは『喰う会』っていうのはそういう人たちの集まりだったような気がしてならないんですけどね」
 
 いけばな界全体を見渡せる場所にいたのが工藤である。「喰う会」に参加した50人の大半を知っていたと見る方が自然である。「気がしてならない」という、ぼかした言い方は、かえって怪しい。不満分子が集まった、いや、集めたのである。
 もし工藤が「喰う会」の真犯人だとするなら、非常に面白い構図が見えてくる。いけばな界宥和のための「いけ芸」の設立に参画し、裏方トップになっていた工藤が、わざわざ不満分子を集めたわけだから。完全な裏切り行為である。仕掛け人として顔は出すのはさすがにまずいので、伏せた。そして何も知らない下田と中川を引き込んだのではないか。そういうことを涼しい顔でする人、のような気がする。
 痩せ型で温厚、たいへんな知識人であり、しかも英語、中国語、モンゴル語、イタリア語、フランス語に堪能だったという。それが下田によると「あの痩せた体で目を見張るような大食いの食道楽だったし、車を運転させれば恐ろしいスピード狂だった」(「道行」)というから、ギャップが大きい。また、「いけ芸」の事務局長ともなれば、皇室とのつき合いもあるわけで、呼ばれたらさりげなく花をいけてくる。
 そんな工藤が、密かに前衛運動の志をもち続けていたのである。だからこそ下田と中川を必要としていた。いけばな界をひっくり返すために。
 
 くどいようだが、あくまで仮説であり、直接的な証拠はなく、状況証拠のみである。やってはいけない推理なのかもしれない。そこは個人ブログということで、勝手な振る舞いを許していただきたい。
 ただ、工藤が真犯人ではなかったとしても、いけばな界中枢にいながら、前衛運動の志を捨てなかった人であることは確かである。いけばな界は、こうした獅子身中の虫が働かないと、なかなか動かないのである。 

(注9)「『テーマ性いけばな』から『植物との往還』へ」『日本いけばな文化史・5』同朋舎出版、1995年刊。

(最後の前衛いけばな人、下田尚利 ② おわり)


⇐ 最後の前衛いけばな人、下田尚利  ③

最後の前衛いけばな人、下田尚利 ① ⇒


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