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07| 最後の前衛いけばな人、下田尚利⑤(最終回)

2024年3月25日/記
(敬称省略)


 下田尚利は、家元継承後もいけばな改革の志を保ち続けた。ただ、いけばな界内部の改革をなしえたのかどうかについては、正直に言って、よく分からない。はっきりしているのは、前衛いけばな時代の気概を次世代に伝え、次世代の現代いけばな活動を牽引したことだ。実に辛抱強く活動の継続に力を尽くしたのである。

               (図1) 下田尚利の「実もの」いけばな 《くりくり坊主》 2013年
夏蜜柑と金柑

流派社会の改革

 「いけばな界」と書いたが、その実態は流派が集まって形成している「流派社会」である。現代いけばなの分野も成立しているとはいえ、あくまで流派社会の周縁部にあるだけと言ってよい。いけばな評論家時代の下田の立ち位置はこの周縁部であり、そこから批評活動を展開していたわけだが、家元継承によって、今度は流派社会の本体に回帰したのである。

  流派社会の話を下田から聞いたことはあまりない。口に出しかけたところで、こんな愚痴を話したくないといった感じで引っ込めてしまう。彼が明言したのは「いけばなTODAY」のことぐらいだ。
 諸流が協力して毎年開催してきた展覧会に「いけばな日本百傑展」というのがあって、その大げさな名称を、下田が評論家時代にさんざんこき下ろしていた。下田が家元を継承した頃には、展覧会関係者も時代に合わせて衣替えする必要を感じ始めたていたらしい。下田は、運営委員に選ばれ、関わることになった。それで、ともかく名前を「いけばなTODAY」とし、現代いけばなの拠点化をはかったのである。が、一応の成果はあったものの、十分な改革に至ったかどうか、微妙なようだ。しかも6年ほどで展覧会自体がなくなってしまった。
 流派社会の内部での改革はむずかしく、改革を目指す仲間はいたにしても、多勢に無勢だったのではないか。

 結局のところ、流派社会の外に現代いけばなの活動の場を作り出していくほかなかったということなのだろう。「外」と記したが、ほとんどの人が流派に所属しているわけだから、完全な外などはない。周縁部に一応の治外法権が成立していて、それが流派社会の影響が及ばない「外」ということになる。私などはさらに外の、ほとんど部外者である。
 部外者からすると、中途半端な治外法権ではダメじゃないかと言いたくなるが、そこに至るだけでも大きな努力が必要だったことは認めねばならない。

地域と東京との連携

 下田の家元継承は1984年だが、当時の現代いけばな状況を確認しておこう。前々回に触れたとおり、現代いけばなの成長を見せつける「現代いけばな美術館」展が開催されたのが1980年である。現代いけばな世代が主役となった、画期的な展覧会であった。その前後から、地域の人たちと東京勢が連携する現代いけばな展が多くなった。
 さかいゆきおが中心になって開催した「'79公募いけばなキャラバン」が、そうした動きの草分けである。さかいは、地域の文化人として信頼の厚い人物だったので、地域の人たちを巻き込み、彼らと東京勢が交流を深める機会になった。会場は、富山県利賀村合掌の里であり、屋内屋外を使った大規模な展覧会となった。(図2,3)

(図2)さかいゆきお 1979年「いけばなキャラバン」出品作
(図3)稲垣緑鬼 1979年「いけばなキャラバン」出品作

 1980年代に入ると一気に増えて、愛知、新潟、秋田、石川、北海道、九州でも地域と連携する展覧会、イベント、シンポジウムなどが次々と開かれた。地域グループには、「いけ花新進会」(石川)、「亜王の会」(秋田)、「いけばな集団70」(新潟)、「華工房」(愛知)、「グループ華」(横浜)などがあり、活発な活動を展開していたのである。なお、1983年の「公募にいがた雪原イベント」や、1984年の内灘砂丘での公募展「結・節・点・う・ち・な・だ」など、野外を会場とするケースもめずらしくない。
 なお、いけばなで「公募」というのは、美術団体の公募とは違い、無審査・無償のアンデパンダン展という場合がほとんどである。流派単位、家元推薦といった参加形式が多い流派社会の中で、自由な個人参加を呼びかける意味での「公募」なわけである。
 
 新世代による美術画廊への進出という現象も起きた。1981年のギャラリー手での大坪光泉個展がその先駆けであり、以後、谷口雅邦、かとうさとる、松田隆作、坂田純、假屋崎省吾らが進出していった。
 興味深く思ったのは、当時は最若手であった假屋崎(1958年生まれ)である。のちに彼からもらった略歴を見て、驚いた。1987年に個展が3回、翌年も3回、翌々年になってようやく1回に減らした、という調子なのである。開催した画廊名を列挙すると、田村画廊、村松画廊、真木画廊、ギャラリー葉、かねこあーとG1、コバヤシ画廊、等々である。毎回違うわけで、東京中の貸し画廊を渡り歩いているようなものだ。
 当時の美術家だと、そこの展示空間が好きだとか、画廊主と考え方が合うとかの理由で、特定の画廊で個展を続けることがけっこう多い。それに年3回というのは、作品制作の時間や開催費用からして無理がある。もうお分かりだろう、短期間で自分の作品と名前を美術関係者に認知させる、思い切り戦術的展開なのである。呆れたり、感心したりしたことを覚えている。しかし、これも当時の現代いけばなの活況の一例と言えなくはない。

現代いけばなは終わり?

 私が本格的にいけばなに関わったのは1990年代に入ってからなので、それ以前のことは詳しくない。ただ、活況の端っこくらいには触れた記憶がある。下田は回想して、次のように語っている。「70年代いけばなというのは本当に面白かったしね、80年代の中頃まではそうだった」と。
 ここまではいいのだが、こう続く。「しかし、今にして思えば、1989年で終わり」だと、これは2002年に私が企画した公開対談での発言である。対談の最後に突然言い出したので、少々戸惑った。で、次のような話になった。
 
◆三頭谷 (略) 私の場合は1990年頃から現代いけばなに関わるようになったわけでね、下田さんが終わったところからなんで、困ったな(笑)と思ってるんですが。ただ、これまでも大きな転換点を越えてきたわけだから、現在の問題も乗り越えていくことができるだろうということで、関わっているのですがね。
下田 だからわれわれもこりずに「Fの会」などというグループ活動をやっているんだけど。「神様を笑わせたかったら将来の計画を話せ」というからね(笑)。
三頭谷 神様を笑わせてもしかたがないので、将来はクエスチョン・マークにしておきましょうか。今日はどうもありがとうございました。
                (「対談『前衛いけばなの時代』 注1)
 
 と、まあ、暗い話で対談を終わるのを避けたのである。この頃になると私も現代いけばなの状況をかなり理解していたので、下田の話を不思議には思わなかった。それにしても、彼の話をそのまま受け取ると、家元継承からわずか5年で「現代いけばなは終わり」ということになる。 いつものことだが時代の流れは容赦ない。
 ただ、1989年は、下田がその戦争責任についてこだわり続けた昭和天皇が亡くなった年であり、彼にとっては受け入れがたい昭和天皇の自然死が現実になった年でもあった。この辺りは差っ引いて見ておかねばならない。私の肌感覚としては、1990年代半ばくらいまでは、現代いけばなの熱気が感じられたという記憶である。
 逆に言えば、現代いけばなは、1990年代半ばから下降期に入ったということだ。現代いけばなに陰りが見えてきたのである。しかし、下田は諦めなかった。そして、彼の最後の活動である「Fの会」の結成と展開が始まる。

(注1)対談「前衛いけばなの時代」(三頭谷鷹史連続企画の第2回として開催、 2002年3月30日、主催・会場/GALLERY MAKI、 プロデュース/大浦信行、アシスタントプロデュース/吉田京子)。『複眼的美術論・前衛いけばなの時代』美学出版2003年刊に所収。

最後の活動「Fの会」

 下田の認識によると、1990年代には、「いけばなインターナショナル」企画の野外展(図4)とか、いけばな造形大学の北條明直学長が故さかいゆきおの活動を受け継ぐとして立ち上げたキャラバンがあり、そういった企画に支えられたという。


(図4)下田尚利《波の音を聞いていたら》1996年、葛西臨海公園

 


 ただ、それらに「いつまでも乗っかっているだけではしょうがない、自分たちで何か始めよう、というのが『Fの会』なんだ」と語っている(対談「道行」)。
 1997年7月に13人が結集し、仮称「13人の会」として成立、翌年に名称が「Fの会」となった。そのメンバーは、下田尚利、大吉昌山、吉村隆、千羽理芳、大坪光泉、日向洋一、かとうさとる、長井理一、粕谷明弘、小泉道生、早川尚洞(研一)、大塚理司、宇田川理翁である。
 多様な意味での混成グループであり、年齢もそうだ。最年長の下田(1929年生まれ)と最年少の宇田川(1959生まれ)の間は約30歳だから、完全に親兄弟が一緒の船に乗った感じだ。前衛運動ということでは、下田以外では吉村が後半期に関わりがあるが、あとは現代いけばな運動で頭角を現してきた人たちである。流派の家元もいれば、大幹部、そうでない人、無所属の人だっている。
 
 下田がリーダーだとしても、基本的には個人の自由で集まったグループにすぎない。世代だけでなく、一人一人の性格も当然違うだろうし、考え方も違うはず。流派社会の中での立場もまちまちだから、いくら個人参加だといっても、立場の違いがグループ内の人間関係に影響を与えるかもしれない。だから、いつ解散になってもおかしくないと思っていたのだが、なんと約20年間、活動を続けたのである。
 結成後すぐに13人だけのグループ展を開催し、次に企画展に取り組んでいる。その企画展が素晴らしかった。Fの会主催で、会員以外の24人を招き、1999年9月に大会場で開催した「いけばなから'99」展がそれだ。総勢37人が大作に挑んだ賑やかな展覧会であった(図5,6)。私は展覧会図録に、「ひさしぶりに現代いけばなの元気な展覧会を見せてもらった」として次のように記した。
 
◆「『元気』という言葉で形容するのは適切でないかもしれないが、現代いけばなに停滞感のようなものを感じていたところに、この展覧会はすこぶる新鮮な空気を送り込んでくれたのである。他にも多数の現代いけばな展があり、それぞれの意味を担って開催されていることは承知している。ただ、儀礼的な慣行が介在したり、イヴェント色が強すぎたりで方向性が曖昧になり、現代いけばなの指針になるような展覧会になっていない。少なくとも私には不満であった。
 『Fの会』が中核となって開催された今回の展覧会が、停滞した状況に一石を投じた意義は大であるし、今後も継続して新たな動きをつくってくれることを願って、この一文を書いているつもりだ」(「未来に向けての狼煙」 注2)

(図5)「いけばなから'99」展 横浜・新都市ホール 
(図6) 同上

 親兄弟一緒の船に、私は最初から抵抗感があった。現代いけばな創出期の若者たちには世代の主張や個人の主張、創作や活動手法の冒険があったが、彼らもいつの間にか流派社会の中に立場をえて、安定と温厚さを見せ始めていたように思われる。そうした微温的な空気の中、親兄弟一緒の船では世代交代が進まない。どうなるのかと心配をしていたところに、この企画展であり、以後の発展を大いに期待したのである。

(注2)三頭谷鷹史「未来に向けての狼煙」『いけばなから'99』展図録、いけばなから'99実行委員会、1999年。

下田、最後の一手

 その後はFの会展が2回開かれたが、残念ながら会員のみのグループ展であり、内向きの印象が拭えなかった。私が期待したのは、親兄弟の船ではなく、Fの会が中核となって動きを創り、現代いけばなの停滞状況を打破してくれることだった。
 私は下田にその点を進言して、彼も同意していたが、Fの会メンバーの意思統一がむずかしかったようだ。参加者を広げれば事務作業も増え、それを誰が担うのか、等々の問題もある。
 また、Fの会メンバーに女性を入れた方がよいとも進言したが、やはりむずかしいという返答だった。こちらは心理的な問題だろうか。
 いろいろ不満を感じていたところ、起死回生の一手が打たれた。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(以降は「芸術祭」)に参入することになったのである。
 
 第2回の芸術祭が開催された時、下田が『日本女性新聞』に芸術祭について書いた批評をディレクターの北川フラムが読み、それが縁となってやりとりがあり、参加することになったという。2006年の第3回芸術祭へ、会員11人と会員外10人が「小白倉いけばな美術館」と題して参加した(図7)。なお、小白倉は開催場所の地域名である。

(図7)大塚理司《2006年8月の薔薇〉第3回「大地の芸術祭」2006年の出品作

 現代いけばなの大挙参入は、主催者から「2006年のみどころの」の一つとして位置づけられ、評判もよかった。出品者は大いに盛り上がったし、興奮気味の人もいた。その理由は、私の見立てでは、観客層の質にある。
 いけばな展の観客は、お弟子さんとか関係者とかで占められ、たとえ観客数は多くても、閉じた世界なのである。現代いけばな展の場合でも同様で、外部の客は少なく、やはり閉じている。それが芸術祭では現代いけばなは初めてという観客が大量に見に来てくれたのである。下田がもっとも望んでいた観客だった。
 ただ、私は別種の感想をもっていて、それについてはこのブログの「Ⅰ美術の終末、芸術の終末   02 イベントが悪いわけではない、しかし・・・」を見ていただきたい。
 
 それはともかく、芸術祭に参入した当時の下田は76歳、なおも進路を開拓する意欲に満ちていたわけで、立派なものだと感嘆したのを思い出す。
 
 しかし、再び「残念ながら」と書かねばならない。2009年の第4回芸術祭にも参加するが、今度は会員のみであった。その翌々年に東京で開催した「いけばな雑司ヶ谷2011」では、会員以外も招いているが、Fの会が現代いけばなの中核という印象は薄れていく。
 
 また、若手会員よりもさらに下の世代の上野雄二(1967年生まれ)や日向雄一郎(1971年生まれ)らのライブ「花いけバトル」などが始まり、Fの会とは別系統の活動となっていく。とはいえ、下田はそうしたライブにも出かけ、「これがね、高い入場料を取るんだ」とブツブツ言いながらも、ライブの様子を嬉しそうに語ってくれた。新しい動きは彼の好物だった。
 
 2012年、Fの会は第5回芸術祭にも参加するが、会員8名のみの参加であり、しかも下田は病気のため、不参加となった。その後病気から回復したけども、第一線から退いた感じだった。そして2016年6月、Fの会の解散を決定する。同年12月、『いけばなと私 下田尚利』(求龍堂)を出版。 

現代いけばなは周縁文化

 あらためて下田の足跡を記しておこう。家元跡継ぎ、前衛運動、挫折、勘当同然の家出、会社社長、いけばな評論家、家元継承。この内、私がもっとも重要視する活動はどれかと言ったら、意外に思われるかもしれないが、家元継承以後の活動なのである。
 前衛運動やその中で制作されたテーマ性いけばな作品は、単に埋もれているだけであって、再評価されるべきだと私は見ている。ただ、若さがあり、時代の上昇気流もあり、それらが重なって生み出されたという側面がある。
 それと比べると、数々の矛盾を承知で回帰した流派社会で、足に絡みつく泥をかき分けながら進もうとした、尋常でない努力を何より評価したいのである。また、家元継承を機会に下田と重森弘淹の間でなされた論争は、二人のいけばな観の違いを顕在化させたものであり、たいへん興味深い。あくまで相手を思いやりながらの、友情に満ちた論争であった。ただ、かなり複雑な理論的問題になるので、場をあらためて検証したい。
 
 ともあれ、流派社会内部での改革に成果はなかったかもしれない。しかし、内部に入ったからこそ内部でうごめく創造的な芽を捉えることができただろうし、それを周縁部に引き出すことができたのではないか。そのままでは流派社会に埋もれてしまいかねない人材を励まし、導いた。現実に下田の励ましで救われたいけばな人もたくさんいる。自分の流派の門下を増やすつもりはなく、増えたわけでもない。あくまで、いけばな界全体のための行動だった。
 
 勅使河原蒼風や小原豊雲らの前衛運動は、周縁部などではなかった。なにしろ草月流と小原流を合わせれば最大流派である池坊に匹敵する規模であり、その家元たちが先導した前衛運動なのである。大流派の家元が前衛という、奇妙な(ある意味日本的な)形態ゆえに自流の門下を激増させたし、流派社会本体を大きく揺るがせえた。
 1970年代以降の現代いけばなは、そうした前衛時代とはまったく違い、一人一人では流派社会に埋没しかねない人々が手を組むことで、周縁部に成立させたいけばな文化だった。当然ながら大流派家元たちほどの影響力をもたなかった。
 しかし、過小評価してはいけない。この周縁部こそが造形主義の行き詰まりを打開したのである。また、流派社会内部に潜在する創造的な芽を周縁部で花咲かせることで、流派社会内部にも創造的な養分を還元してきたように思われる。元気な現代いけばな人がいる流派には活気があった。前衛家元という大スターが表舞台から去ったのち、いけばな界の荒廃を救ったのは、周縁部だったのである。
 その周縁部の花が枯れかかった時に懸命に水やりをしていたのは誰か、多くの人がそこに下田の姿を見たはずである。
 
下田は私との対談「道行」でこう語った。「(自分の場合)新世代集団の短い日々が、いけばなを考える原点になっている。いけばなの停滞を打破するのは、明確な主張を持ったグループ活動しかないんだよね。一人ではできないことも、力を合わせれば何かが動く、何かが変えられる」と。
 人生最晩年の言葉だが、なおも辛抱強い楽観論であり、下田らしい遺言でもある。
 

おわりに

 このブログの別の論考「いけばな人口激減の考察 ①②」で分析したとおり、今はいけばな人口が激減し、従来型の流派社会の存続は無理な状態になりつつある。いけばなの伝統、すなわち歴史を、きちんと踏まえることはもちろん重要である。しかし、流派社会が本当の意味で歴史を背負っているのかどうか。「伝統文化」と呼べば美しく聞こえるが、名ばかりのラベル一枚を、オマジナイのように貼っているだけでは、もう、もたないのである。
 骨董文化に成り下がるのか、と言うと骨董には骨董の良さや役割があるから、骨董に申し訳ない。別の表現をしよう。もし現在進行形の文化であり続けたいのなら、周縁部が果たしてきた役割をしっかりと見つめ、礎としながら、未来の形を創っていく時期が来ていると私は思う。
 
 
 下田は、Fの会解散後、病気を抱えながらも、しばらくは元気だったが、再び入院。今度は終末期医療と聞いて、お見舞いにいき、前に書いたとおり、本人から葬儀委員長を頼まれたのであった。緩和ケアを受けていたのだろう、痛みがある様子もなく、笑いをまじえて話をした覚えがある。その後再び様子を見にいった時も、やはり元気で、死の予兆など感じさせなかった。しかし・・・
 
2018年12月27日死去。
死の前、衰弱にあらがいながら、病床で懸命に花を生けていたと聞く。

図版出典
図1,4 『いけばなと私 下田尚利』求龍堂、2016年
図2,3 工藤昌伸『日本いけばな文化史 5』同朋舎出版、1995年。
図5,6『いけばなから'99』展図録、Fの会、1999年。
図7  『小白倉いけばな美術館』図録、小白倉いけばな美術館実行委員会、2007年。


 (最後の前衛いけばなの人、下田尚利⑤最終回 おわり)


最後の前衛いけばなの人、下田尚利④ ⇒


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