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06|「彼」との小さな因縁、そして妄想--「裸のラリーズ」水谷孝

 2023年5月1日/記
(敬称省略)


 10年ほど前のこと、なに気なく、ひらがなの「みずたにたかし」でエゴサーチをしたことがある。すると水谷孝の名前を発見し、あの「彼」かと、1969年頃の「彼」の風貌を思い出した。その後どうしたのかが気になり、サーチを続けた。その結果、一般のメディアには登場しないものの、独自の姿勢を貫いて音楽活動を続けていたことや、水谷が中心メンバーである「裸のラリーズ」は、伝説のロックバンドになっていることを知った。
 私は音楽にうとく、水谷孝について語る資格がないことは承知している。ただ、あの時代を語るため、「彼」との小さな因縁を口実にして、無理に登場してもらうことにした。本人は数年前に亡くなったそうだが、故・水谷孝、および関係者やファンの方々には身勝手な執筆をお詫びしておきたい。


「孝」と「敬」

 「彼」と「裸のラリーズ」について、まずはウィキペディアを参考にさせてもらう。――「裸のラリーズ」は、ヴォーカルとギターの水谷孝を中心にしたバンドであり、「水谷のフィードバック奏法による常軌を逸した大音量のノイズで知られている」という。1967年11月に同志社大学の学生であった水谷、中村武志(ギター)、若林盛亮(ベース)の3人で結成。若林の脱退と前後して加藤隆史(ドラム)が参加。さらに山口冨士夫、久保田麻琴、高橋ヨーカイ、三浦真樹などが一時在籍。なお、脱退した若林は、よど号ハイジャック事件に加わった。(注1)。
 音楽評論家の湯浅学によると、ラリーズは70年夏まで京都で活動し、秋に水谷が東京へ移り、72年からはライブを数多くこなし、さらにOZを拠点に、より積極的な活動を展開していったという。(注2)。

 先述のサーチの時に見た、あるブログ(今は見当たらない)には、水谷孝と三頭谷鷹史の関わりについて問うような文が書いてあった。読みが同姓同名、同大学、同世代(私が1歳上)、同郷(愛知)を指摘し、何か関係があるのではというわけだ。ネット時代は、こういう材料が得られて、ちょっとした推理ができるのだと、感心させられた。しかもブログの著者の推理は一部当たっているのである。なるほど私は「彼」を知っている。が、言葉を交わしたことはない。ある因縁で、私は「彼」を一方的に意識することになったのである。

 1968年後半、いや69年だったか、学生会館の部室棟にコンサートを告げるポスター(チラシ?)が貼ってあり、「水谷孝と裸のラリーズ」と記されていた。ところがポスターの「孝」の文字に手書きの二重線が乱暴に引かれていて、その横に「敬」の名が書いてあった。当時はまだ本名の「水谷敬」を使っていた頃なので、この「敬」は私のことだ。おそらく美術部の後輩の仕業であろう。当時、本格的には70年代に入ってからだが、成行き的に裸になってパフォーマンスをやっていたので、それを知っている後輩が、裸ならこちらが本家だという意味で、いたずら書きをしたものと思われる。
 何てことをしてくれるんだと、嫌な気分になった。この時に初めて「水谷孝」の名前を知り、その後誰かに「あいつが水谷孝だよ」と、そっと教えてもらった。生活圏が重なるからたまにはすれ違う、その度にチクリと心が痛んだが、謝らなかった。「自分がやったわけじゃないし、この程度のいたずらで俺が謝るのもヘンだ」と思っていたのである。ただ、妙に「彼」を意識するはめになった。そして、ある日、予想外の場所で「彼」とすれ違った。それは大阪御堂筋の大規模なデモの最中だった。

(注1)「裸のラリーズ」『ウィキペディア』。(2023/04/01閲覧)。
(注2)湯浅学「裸のラリーズをもっと」『ミュージック・マガジン』1991年11月号。当時パリに住んでいた水谷孝に、湯浅が東京からファクシミリでインタビューした内容を含む。


荒れたデモのなかで

 正直に言うと、御堂筋のデモだったかどうか、記憶に自信がない。いくつかのデモの記憶が入り混じっている可能性がある。ただ、かなり荒れたデモの最中に「彼」とすれ違ったことは確かである。ここでは御堂筋のデモということにしておく。

 同志社大は当時ブント(社学同)の拠点校なので、大半の学生が赤ヘルをかぶる。その日は、同志社大を出て、御所横の今出川通りを道路いっぱいに広がる違法なフランスデモで走った。河原町通りに至って南下し、立命館大(旧・広小路学舎)のキャンパスに立ち寄った。立命館大は、新左翼とは対立していた共産党系の民青の拠点である。乱闘にはなっていないが、厳しい抵抗に遭った。彼らの拠点を荒らしたのだから怒るのは当然であり、細身の学生がシャープペンらしきものの先端で私を刺そうとしてきたのを憶えている。
 私は民青の学生に恨みも敵意もない。美術部には民青の後輩もいたし、逆に卒業後は江田島(海自幹部候補生学校)に行くと明言していた右派の後輩もいた。日頃から彼らとは仲良く議論していたのである。彼らはものごとをしっかり考えようとしていたから、議論しても面白かった。思想的な対立がそのまま憎しみや敵意に向かうわけではない。
 
 立命館大を出て再び河原町通りを南下、繁華街に入ってから、阪急電車だったかで大阪方面へ。そしていつの間にか広い通りへ出た。そこでゲバ棒の配給があったが、私は暴力が嫌いなのでゲバ棒は受け取らず、投石もしないことにした。もちろん暴力に発展する可能性があったデモなので、非暴力の気持ちとデモ参加は矛盾するが、当時の私には必要な行動だった。国内国外で大きな変化の胎動があり、その動きに連なりたいという欲求が生まれていたのである。
 その後のデモはかなり荒れたものになり、機動隊にやられたのだろう、道路脇には怪我をしてうずくまっている学生たちを見かけた。前方からこちらに逃げてくる人の流れがあり、一緒に逃げようとすると、「お前ら~、反革命だ!」とがなり立てる人物がいた。何を言っているんだ、こいつは!。俺はお前の配下じゃないぜ、と逃げることにした。

 そんな緊張した道路上だったと思うが、ヘルメットをかぶって、もの静かに歩いている「彼」を見た。ゲバ棒はもっていなかった。「ああ、あいつも来ていたのか」と妙に共感を覚えたのだが、一瞬のことで、じきに離ればなれになった。その後のことはよく憶えていない。たぶん逃げまくったのだろう、いつの間にか騒動は治まり、自然解散のような状態になった。たまたま中華料理の珉珉を見つけたので、そこで餃子を食ってから京都に帰った、という記憶である。


黒色のヘルメット

 「彼」がかぶっていたヘルメットの色は黒だったと思う。アナーキストを象徴する色だが、「彼」の周囲に黒ヘルはいなかった。ということは仲間はおらず、アナーキストを含めた、どんなセクトにも所属していなかったということではないか。政治思想を表していたのではなく、情緒的な選択だったと思う。この点は、よど号事件で北朝鮮に亡命した若林盛亮が、神庭亮介の国際電話インタビュー(注3)に答えた回想とだいたい一致する。


――バンド内で政治の話をすることはあったのですか。
別に政治を語るバンドじゃないですからね。ただ、私が辞めてから、水谷君が黒ヘルをかぶってデモに行っていたという噂は聞いてましたよ。
――黒いヘルメットというとアナキストですか。
黒ヘルっていうのはアナキストですよね。まあ、自分は特定のセクトに属していないという意思表示だと思いますよ。


 黒ヘルではないけども私もそうだ。美術部の友人との二人連れだったが、二人ともセクトへの所属が嫌だったので、この時に被っていたヘルメットは、赤、白、黒、ピンクの迷彩色だった。もちろん、こんな色のヘルメットはない。作ったのだ。実は、ヘルメットは、何度もパクられ、けっこう色々なセクトを渡り歩いている。そんなヘルメットのところどころにシンナーなんかをかけて布でこする。最初は赤ヘルでも、前のセクトの白色が出たり、赤と白が混じってピンクとなったり、さらにその前のセクトの色とかが出てくる。結果的にサイケデリックな迷彩色となる。
 デモの最中、こんなヘルメットでも文句ひとつ言われなかったから、いい加減というか、緊迫感とおおらかさが共存していた。黒ヘルも同様に受け入れられていたのだろう。

(注3) 神庭亮介「裸のラリーズ結成50周年 ハイジャックで北朝鮮へ渡った元メンバーが語る」『BuzzFeed News』2017年10月17日公開、後編は18日公開。(2023/04/01閲覧)。


大音量の解放区

 音楽活動に邁進していた「彼」だから、おそらく政治的な目標達成を目指していたわけではないだろう。では、デモ参加に音楽的な理由があるのかだが、直接的な理由はないのではないか。デモ渦中の「彼」は、多少緊張の気配を漂わせていたものの、イケイケの雰囲気はなかった。ちょっと俯き気味に歩きながら、目の前に起きていることを「体感」しようとしていたように見えた。もちろんデモ最中の一瞬の光景を捉えて語っているのだから、私の勝手な妄想である。

 この頃の音楽活動はどうだったのかを、裸のラリーズ公式サイト(注4)に掲載された関係者の回想で見てみよう。結成メンバーの中村武志は初期のこととして次のように語っている。
 「バンド名も含めて、『日本語でオリジナルをやる』っていうのは、最初から絶対にあった。当時、グループサウンズとかは日本語だったけれども、本当にロックを日本語でやるバンドはいなかったから。水谷さんは詩人で、すでに歌詞を書いていたし、それをロックでやりたかった。ライブは最初から大音響でしたよ」「その時の音の大きさ、それは自分の日常意識がぶっ飛ぶような、初めての体験だった」。
 音について久保田麻琴も同様な回想をしている。コンサートに行ってみたら、「とにかく音がものすごいデカくて、あんなデカい音を聴いたのは生まれて初めての経験だった」と。

 これらの回想から見出せる一特徴は、欧米への追随が目立った60年代とは違い、自分たちの独自性を強く意識していた点である。もう一つが「大音響」であり、ラリーズの代名詞と言ってもよいくらいだ。もちろん、音が大きいだけなら「うるさい」の一言で終わる話だが、魅惑される音でもあったはずである。
 それにしても「日常意識がぶっ飛ぶ」とはどういうことなのか、これは音の大きさの延長線上で語れる話ではないのではないか。ライブを体験していないので、以下は私の妄想である。
 もしかすると、あの時代の非日常の反映がそこにあった、というのが私の仮説である。音楽云々というよりも、もっと手前にある日常そのものを大音響で攻撃し、演奏者や観客が立つ場の空気を変え、一時的な解放区を創出する。言ってみれば非日常の音によってバリケードを築き、その内部に高度な自由を与える、あるいは日常感覚を麻痺させる、といった感じだ。結果、人間の底部に潜在する始原的感覚が目覚める場となる。
 無理に譬えるなら、呪術、シャーマニズム的な場であり、それでいて、その場にはそぐわない知的な詩が、独特の歌い方で投げ込まれる。といった手の込んだアンバランスが面白い。ただ、創造と同じくらい破壊が際立つ。京都時代にこうした方向性や方法を獲得していたものと思われる。

 私は音楽にうといが、「彼」の回想と重なるところもある。「常にジャズを聞いていた。コルトレーン、アイラー、マイルス、コールマン、よくある平凡な話だ。当然だが彼らのジャズが平凡な訳はない。刺激は受けたであろう」(「裸のラリーズをもっと」)。たしかに平凡な話であり、私もまったく同じだった。違うのは行き付けのジャズ喫茶が違っていて、「彼」は「しあんくれーる」、私は同志社近くの「Big Beat」だった。私の場合、2、3年は足繁く通ったような気がする。
 おそらく「彼」も私も、そして当時の若者の一部も、こうした文化状況や政治状況を共有し、刺激を受けながら自分の道を探っていたに違いない。

(注4)公式サイト『Les Rallizes Dénudés 』(The Last One Musique)。2021年10月21日開設。(2023/04/13閲覧)。


革命と音楽の分岐

 ハイジャック事件は1970年3月末に起きたが、それより少しばかり前、あるデモで、「安保粉砕、闘争勝利」の声に混じって「安保粉砕、戦争勝利」を唱える一団が登場してきた。「『戦争』だと!?、あれは何だ」と知人に聞くと、「赤軍派」だという。もしかするとその時に神庭も参加していたのかもしれない。学生運動の軟派にすぎない私は、「闘争勝利」を唱えることでさえ違和感があった。それが「戦争勝利」となると、これはまったく別世界だった。1968年、69年、あの頃は加速度的に状況が変わっていったのである。

 インタビューで若林は、こんな結論めいたことを語っている。グループ脱退後もメンバー個々との交流は続いていたが、「私はハイジャックの前に長髪を切りました。それはやっぱり、彼らとの決別でもあるわけです。私は革命の方に行くし、彼らはバンドで自分たちの表現をする。それぞれの道を極めましょうと」。グループ結成時点ではメンバーの意識は、政治的にも文化的にもそれほど差異はなかったであろう。それがわずか2年ほどの間に絶えず状況が変わり、その変化を吸収して意識も変わっていく。しかし、早すぎる、あまりにも早すぎる変化である。
 変わったのは若林だけでなく、「彼」も、別の方向へ変わった、変わるほかなかったのではないか。70年以後となると、「彼」に政治的活動の痕跡は見当たらないようである。だからといって、60年代の状況を乗り越え、若林の言う「私は革命の方に」「彼らはバンドで」といった綺麗な転換を果たしえたのだろうか。早すぎる変化ゆえに、成熟した果実をえられないまま、70年代のステージに立つほかなかったのが、「彼」の「裸のラリーズ」だったのではないか。

 「彼」が東京に移った70年代初期の関係者の回想(前掲公式サイト)を見てみよう。1972年6月、東京の吉祥寺にライブハウス「OZ」がオープン。1年3ヵ月という短い期間しか存在しなかったが、ラリーズの拠点となった。そのOZ店長で、のちにラリーズのマネージャーとなる手塚実が次のように語っている。
 「初めて見たラリーズのライブには、それはもうビックリした。いちばんビックリしたのは歌詞だね。まず歌詞がグッと入ってきた。『記憶は遠い』とか『造花の原野』、ああいう歌詞の魅力は、当時の他の日本のバンドとは全然違ってたんだ。文学性というか、インテリジェンスというか……まさに詩人だった。そしてメッセージ性。メッセージと言っても、それまでのフォークなんかとは違う。当時もう学生運動はしょぼくれていて、マスコミではシラケ世代とか言われてた頃だった。皆おとなしくなっちゃってさ。そんなところに、ラリーズの音を聴いたから、おお!って感じだった。すぐに僕は、ラリーズのことを凄く気に入った」。
 OZのスタッフをへてラリーズのスタッフとなったハリマオーの回想はこうだ。
「当時、日本のロックと言ったら、まだまだ洋楽の猿真似を競い合うのが精一杯といった態の時代。そんな中でもOZには個性的なスタイルを持ったアーティストばかりが吸い寄せられるように集まってきて、芸能界とは全く無縁の場所だった。中でもラリーズは別格だった。他とはまるで異なる唯一無二の存在と言える。確固たるオリジナリティーで武装した、見たこともないロックだった」という。京都時代に獲得した独自性が花開いたことが分かる。


重く感じていた事? 安保とか・・・

 しかし、70年代に入った頃、若者を中心に「シラケ」が時代の空気となる。上昇気流のなかでうごめいた60年代的なアンダーグラウンドとは違って、もう少し冷たい気流のなかを歩むほかなかった。それが70年代的アンダーグラウンドの宿命だったのかもしれない。

 70年代に入ってからの『彼」の考えを伝えるものとして、『ヤング・ギター』1973年11月号の記事が興味深い(記者名は「A.I」)。
「『時代は変わってしまった。身体の中で感じる事、それが身軽になったって事かな。重く感じていた事? 安保とか——いっぱいあるでしょ』。
 突如として「安保」なんて言葉が出てきてこちらがビックリしてしまう。『政治問題なんてあまり興味はないけど』。こちらを驚かしておいて、それ以上は話してはくれない」。(注5)。
 自分から「安保」という言葉を持ち出しながら、「興味はない」と斜に構える。言葉の裏に、関心を持続させている様子が伺える。そうでなければわざわざ「安保」なんてことを言い出さないだろう。

 この時代、美術の場合だと、海外の潮流に一部日本的なオリジナリティーの味付けをした「もの派」などが受け入れられた。この点では音楽はどうなのか。また、80年代に前衛的美術はエンターテインメント性を強め、現代美術として一定の市民権をえていくが、もともと芸能界に隣接面がある音楽の場合はもっと早くその傾向が広がり、その流れも「彼」やラリーズを孤立させていったのではないか。
 YouTubeでラリーズに関わった中村趫(武志)や高田清博(どろんこ)たちの対談(注5)を視聴したが、その生活や音楽環境は、70年代はもちろん、80年代でさえ相当に厳しかった様子が語られていた。音楽環境に関しては、むしろ80年代の方が厳しかったようで、高田の発言に驚かされた。ラリーズへの暴力を予告する脅迫が続くので、水谷や高田は、いざという時に備えてナイフを懐に忍ばせていたという。この対談に参加していた元パンクロック「ザ・スターリン」のイヌイジュンも、脅迫は「なんぼでもありましたよ」と発言する。どうやら貧しさだけでなく、ありがたくない緊張感のなかを生きなければならなかったようだ。

(注5)黒沢進『日本ロック紀GS編』シンコー・ミュージック1994年(引用部分の初出が『ヤング・ギター』1973年11月号)
(注6)『YouTube』「視線X」特別編(2022年5月21日公開)、対談/中村趫・高田清博・イヌイジュン/司会・坪内和夫 (2023/04/09視聴)


大転換、CDをリリース

 湯浅学の「裸のラリーズをもっと」によると、ラリーズ(水谷)は、大量の録音テープを所有していたようである。しかし、なぜかレコード等の媒体による供給には消極的だった。1991年になって、ようやくラリーズ単独のCDをリリースする。湯浅がその動機やきっかけなどを聞いているが、明快には答えていない。「普通の意味での脈絡など無かった。大げさな意図も無かった。こちらの言い方で言えば、一種の花火、或いは火遊び」だと言う。やはり斜に構えた言葉であり、逆にストレートな言い方がもっぱらCD化においての技術的問題に向けられているのが興味深い。「アナログ音とデジタル音での格闘」「まるでいかさないデジタル音を徹底的に壊して源音に近づける作業」と語っている。
 ただ、アナログ音がよいというのなら、アナログのレコード盤を作ればよいはずだが、そうでもないようである。ここでは「源音」という言葉に注目したい。この「源音」は、アナログ音云々以前のルーツの音のことなのではないのか。もし、そうなら、やはり「大音量の解放区」に思いが至る。
 ラリーズの特異な非日常の音は、厳密に言えば、ライブの場でのみ成立する。臨場が非常に重要であり、記録媒体での供給に消極的だった理由もそこにあったのではないか。そうだとするなら1991年のCDのリリースは、大きな方針転換であり、この時期の「彼」の激烈な発言もその文脈で読み取れそうな気がする。湯浅の「裸のラリーズにとって“勝利”とは?」という質問に答えて、こう語る。
 「名声、名誉、それらどれもくだらないものだ。敗北の中にも勝利はある。こちらにとって勝利も敗北も関係ない。敗北したからと言って、それがなんだ。こちらはすじを通す為に戦い続けるであろう。もし勝利という言葉があるならば、それを意味するであろう」。
 自分たちのCDをリリースしたばかりであり、思い切りはしゃいでもよいくらいの時期なのだが、まるで追い詰められているかのような物言いである。方針転換を自覚し、意識した上で、志(こころざし)になんら変更がないことを伝えたかったのではないか——あくまで私の妄想であるが。


ワールドワイドで評価

 方針転換はラリーズの存在を伝える点ではやはり大きな意義があった。CDリリース後の1994年に発行された黒沢進『日本ロック紀GS編』では、見開き2ページをまるまる使ってラリーズを紹介している。ところが、ラリーズの活動は、1997年11月の演奏を最後に停止してしまったらしい。そして、再び、ところが、である。2000年以降に断続的に様々な音源が流通するようになり、ラリーズへの関心がゆっくりと高まっていったようである。おそらく熱心なファンや関係者等々が持続して関心を保っていたこと、さらにインターネット時代が追い風となったものと思われる。時間はかかったけれども、海外を中心にラリーズへの関心が広がっていったらしい。
 音楽評論家の松山晋也が久保田麻琴に取材して、久保田と水谷の間で2019年の夏に行われたやりとりについて書いている(注7)。それによると、渡米した久保田が当地でのラリーズへの関心の高さを実感し、帰国後に電話やメールで水谷に伝えたという。
 「とにかくアメリカで大変なことになってるよ、と状況を説明し、ブートレグや伝聞でしかラリーズを知らない若いリスナーにちゃんとした音を届けなくちゃいけないと、まず話したわけです。10回ぐらい電話で話すうちに彼も本気になってきて、一緒に協力しあいラリーズの最後にして最高の作品を出そうぜ、という感じになった」という。
 が、水谷がその年の暮れに亡くなり、実現しなかった。水谷の死はしばらく伏せられた状態が続くが、その間もアメリカやフランスのレーベルからコンタクトがあり、イギリスBBCの下請け制作会社からは番組の申し出があったそうだ・・・時代がもう少し早く追いついていたなら、と考えてしまう。
 元OZ店長の手塚はこう語る(前掲公式サイト)。「このバンドは絶対に凄いことになると信じてた。幻想だったかもしれない。でも今、ラリーズはワールドワイドで評価されてるでしょ。やっぱり俺の目は間違ってなかった。それが嬉しいんだ」と。

(注7)松山晋也「裸のラリーズ」『レコード・コレクターズ』(ミュージック・マガジン)2022年1月号


追記
あの時代の、あの現場を自分史的な批評手法で再現したくなって、「彼」との小さな因縁を口実に、書かせてもらった。音楽はど素人であり、とんでもない間違いをやらかしているかもしれない。しかし、この文を書きながら、あの時代に形成されたであろう、「彼」の活動の核のようなものが、ほのかに見えてきた気がする。

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