一方その頃、彼らは(2)

「封じ手は、8六歩です」

立会人である青野照市九段の読み上げを受け、羽生九段がするりと駒を滑らせる。第33期竜王戦七番勝負第二局が再開された。

入居者がレクリエーションルームに集まって体操しているころ、賢司は車椅子からテレビモニターを眺めていた。大きく映し出された羽生九段の手元。優男的なルックスに反して、厚みのある指をしている。

体操は基本的に全員参加だが、体操が嫌いな賢司はいつもその輪に加わらない。他の入居者の手前、担当である義隆はこれまで何度か誘ったこともあったが、頑として参加しないばかりか、毎度大声で文句を言って体操の邪魔をするため、今となっては将棋を見せておく方が全方位に幸せだと悟った。もはや、この施設の誰もが将棋ファンだった。

義隆は、他の入居者の対応をこなしつつ、少し離れたところから賢治の様子を観察した。義隆の右手は、今日も見えない駒を摘んでいる。

将棋を見ている時の賢司は、普段の姿が嘘のように大人しい。これと言って趣味のない義隆は、80を2年ほど過ぎても夢中になれるものを持つ賢治が少し羨ましかった。自分も将棋、覚えてみようかな。

「うん、とってもいいと思います!」

百合は仕上がったネイルに軽く吹きかけつつ、硬化したトップジェルをサッと磨くと、鼻にかかる声で「お疲れ様でしたーできましたー」と言った。客の指先には、立体的でやたらリアルなトイプードルがドンと乗ってこちらに向かって愛想を振っている。

このサロンで3Dネイルを施術できるのは百合だけだ。中でも得意なのは、動物のデザイン。写真を見ながら忠実に再現してみせる。予約は2ヶ月待ちの人気ぶりで、その全員がスマートフォンのは、愛するペットをあらゆる角度から撮影した画像で溢れていた。

SNSに掲載するため、仕上がったばかりのネイル写真を撮影。ハッシュタグは#大人気ペットネイル#いつでも一緒”トイプーのマカロンちゃん2歳、とかなんとか。

「またお待ちしてまーす」客とマカロンちゃん(爪)を入口まで見送った百合は、そのまま遅い休憩に入った。持参した弁当を広げつつ、スマートフォンでアプリを開く。そして、しばらく押し黙ったあと小さく呟いた。「これは、後手かな…?」

76手目、8九銀が指されたところで評価値が振れた。形勢は後手の挑戦者が優勢。だが、画面に映る挑戦者は、王者よりも苦しそうな表情を浮かべていた。百合は、自分のネイルに鎮座する3Dのドラゴンに向かって念を送る。(行けー!)

「バカ、戻ってこい!」

時生は、足場に登ろうとしている後輩に向かって叫んだ。「足、何回言ったら分かんだよ」。現場で靴のかかとを踏まないよう、時生は常日頃から厳しく指導していた。万が一の危険もあってはならない。だが、悪い癖はなかなか治らなかった。後輩は慌てた手つきでかかとを靴の中にしまった。

スマートフォンの画面で時間を確認すると、16時30分を7分過ぎた頃だった。時生は少しだけ考えて「もういいか。片付けやるぞ」と促すと、店じまいとばかりに足元のビニールシートを引いた。何としても定時の17時に現場を上がって、竜王戦が見たい。

入浴を済ませた賢司は、義隆と並んで竜王戦を見ていた。
パウダールームの隅で、百合も竜王戦を見ていた。
現場から直帰した時生は、歩きながらアプリを起動した。

竜王はじっと腕を組んで、盤面を見つめている。マスクのせいで表情は分からない。静かな佇まいはいつも通りで、2日間を戦ってきたとは思えないほどだった。

対峙する挑戦者は乱れた髪を直すそぶりもなく、深いため息をつきながら体制を整えた。それからたっぷりを時間をかけて最後の確認を入れると、ゆったりとした手つきで4筋の銀を5筋へ引き下げた。

「負けました」

竜王の言葉に、それぞれの場所で緊張の糸が解れた。時刻は17時10分、96手まで。夕食休憩前の投了となった。

「ご飯食べましょうか、賢司さん」賢司は黙って頷いた。

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