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【2024 読了 No. 5】大木毅著『日独伊三国同盟-「根拠なき確信」と「無責任」の果て-』(角川新書)読了。


読み終えて改めて「序に代えて」を見直した。

「これは、主役のいない物語である。長期的な見通しも、確固たる戦略もない脇役が、つぎからつぎへと立ち現れ、ただ状況に翻弄されるなか、利己的に動き回り、筋を進めていく。彼らの行く先が、舞台中央にぽっかりと開いた奈落の底であるとも知らずに。」


読み始めは私もそう思った。


冒頭からは、日本史の予備校講師の私さえ、「A級戦犯になった」って以上知らなかった大島浩がクローズアップされていたから。

その後もどんどん「教科書にも載ってない人」が出てくるわけだから。


でも、読了してからの感想は一言。

「いや、主役いるでしょ」だった。


その主役とは、御存じ、松岡洋右❗️


高校の日本史Bの教科書全てに載っている有名人である。

山川の日本史用語集頻度数⑧だよ。



作者は三国同盟の物語を「主役のいない物語」として書きたかったのだろう。だから、沢山の「脇役」をが「つぎからつぎへと立ち現れ」させる。いわゆる“列伝”、つまり、“編年体”の真逆になってしまっているということだ。そのため、しばしば「時計の針を逆戻りさせ」られていて、結構読みにくかった。


でも、素直に時系列通り並べて読み直せば、三国同盟締結時の外相松岡洋右が、押しも押されぬ“超弩級A級戦犯”ってことになる。

それも、第二次近衛内閣の外相就任の10年程前から、亡国のレールを自ら敷いてしまっていた。

1933年の国際連盟脱退通告時の代表と知られる彼だが、彼についてはその3年前から語るべきだろう。

あまり知られていないが、彼は1930年の総選挙で山口県第2区から出馬して当選し、衆議院議員になっている。

ここまではこの本では触れられているが、議員としての所属政党と、当時の二大政党の状況は全く語られていなかった。

松岡の所属は立憲政友会。そして、1930年当時の内閣こそ、統帥権干犯問題”と昭和恐慌を引き起こした立憲民政党の浜口雄幸内閣なのである。

このとき、松岡は野党の議員だったわけである。だから、浜口内閣の“統帥権干犯”を批判し、有名な“幣原外交”を「軟弱外交」と罵った張本人なのである。

有名な「満蒙は日本の生命線」という言葉は松岡が言い出したと言われている。

満州事変前から、やや芝居がかった(かなり臭めの)語り口と、強気の発言で、当時の国民に既に絶大な人気があったのだ。


満州事変は1931年の柳条湖事件から始まる。この事件勃発3ヶ月後に内閣が交代する。与党となった立憲政友会元総裁高橋是清が手掛けた「低為替政策」、要するに極端な円安政策によって日本の輸出が伸び産業は活性化する。

「満州事変開始→景気が良くなった」という図式は直接繋がっていたわけではないが、国民の戦争支持に繋がっていた。

また、

その上、(ここはこの書も書いているが)民衆は「満州事変は、中国が仕掛けてきた非道な排日運動に対し、日本がついに起った」ものと信じ込んでいたのである。

「日本は悪くない」と思っている民衆にとって、「『満州国』は日本の傀儡国家、建国は認められない」とする国際連盟こそ、悪者なのである。

そんな中、1932年に松岡は国際連盟の首席代表となる。ジュネーブへの出発の際に、松岡は“最後の元老”西園寺公望に挨拶に行った。その際、「脱退など絶対に致しません」と断言していたという。

しかし、実際はおよそ1時間20分も及ぶ、「十字架の上の日本」演説をぶったが、その演説も空しく、翌年2月24日、国際連盟は満州国を否認する案を採択した。

作者はこのような「豹変した背景」を以下のように分析している。

「日本国内の世論の硬化を受け、かつ諸国の代表を説得するためのハッタリとして強硬な主張をなしているうちに『引っ込みがつかなくなった』ものと思われる。」

結果、「意に反して」日本の国際連盟脱退という事態を招いてしまった松岡は、意気消沈していたという。

だが、1933年4月17日、横浜港に戻ってきた彼は、国民に「あたかも凱旋将軍であるかのごとく迎えられた」という。国民は彼の行為を「横暴な白人列強に一泡吹かせた」と解釈したのだろうか。

松岡の人気は彼が第二次近衛内閣の外相に就任しても衰えなかったという。有名な「大東亜共栄圏」なる侵略行為を隠蔽する美辞麗句も、松岡の談話が初出らしい。

彼の言葉は「わが大和民族、人と提携し、もしくは同盟したとき、もはやうしろを顧みるものではない。はっきりとして心中までいくという決心で、抱き合って進むあるのみ。」とか、もう芝居がかったその台詞、臭すぎる。

そしたら、やっぱり歌舞伎が好きらしくて、よく観劇していた。

1940年9月の日独伊三国同盟締結も1941年の日ソ中立条約の締結も彼の独断専行が目立った。

とうとう、1941年の5月の時点で、昭和天皇が外相の更迭を示唆した。しかし、近衛首相は動かなかった。6月にアメリカのコールデル・ハル国務長官に要求されてやっと内閣改造を名目にして、辞表を提出させた。

実は民間レベルの日米交渉が功を奏していた。なのに、松岡が反対して時期を失ってしまった。

松岡の人気に頼ろうとした近衛の未練がかえすがえす惜しい。


それにしても、内容の濃い本であった。

松岡について、自分はこんなに知らなかったかと思い知らされた。

今年は本職の日本史の本を沢山読もうと思う。


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