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ものづくらない、断捨らない


友達
100人いたとして。
愛しい者が何人かあるとして。



そのすべてに、それぞれが満足いくような愛を注げるだろうか?


私は無理。絶対誰かの愛の取り分は減る。それはこちらが逆の立場でも同じこと。


物は、できるだけ得ない。
あとで「断捨離」でもされるものたちこそいい面の皮。自分が捨てられるならって考えれば。百鬼夜行で化けて出ちゃうわ?


例えばお賽銭に高額を注ぎ込む人は、カネを払えば払うほどご利益があると考えているフシがある。


だから願い事は受理されない。自分が得しようとしか考えず、他人を認めないのに認めてくれとねだり、老い死ぬことを否定し恐れ、抱え込んだモノも要らん縁や執着もどっさりなら?
願う「良きこと」の入り込む余地がどこにあるというのだろう。
出されてる宿題や課題をすっ飛ばして卒業させたり報酬を与えることは、学校にも会社にも理(ことわり)にも出来ない。


お賽銭に関して、友人N子さんが教えてくれたこと。
「一円とかでも、別にいいんですって。ご利益が欲しいからお金を出すのじゃなくて、自分の穢れをそれにのせて預かってもらうことだそうなの」


人は死ぬと焼かれる。火葬の国の人だもの。
その際の費用は焼くだけなら十万もかからない。骨壷と埋葬許可書つき。
自分で生活管理出来ず収入の得られない人でもちゃんと焼いてもらえる。


持ち物もすべて処理される。


老いと死が怖くなくなり、それがたとえ愛するひとでもその時は必ずくるのだと肚に落ちてから。


つまりなるべく持たず、愛するものにはできる限り愛して、笑っていこうというだけ。


執着。それが捨てられないからモノが増えすぎ、面倒な人間関係が切れなくなり、過去も引きずり、死んだ後も幽霊になってずっと困ってる。


ものを必要以上に得ない。
大事なひとはこの魂のひと、と決めて覚悟する。そのひとを決めつけたりいじりすぎたりしない。ほかの生き物も、モノも同じ、魂を有するものなら、選ぶ目を養い、厳選してから。
首にリボンなんか結ばない。閉じ込めたり説教もしない。私は、されたら逃げるよ?
で、どこか好きな川原にでも行って、好きに死ぬんだ。


傷つけたくない。愛してるから。幸せでいてほしい。お金だの生きる力だの喜びだのは、以降自分でなんとかするんだよ。もうあなたはできるもの。信じてなきゃ愛したりしない。
ありがとうしかないよ。



ちゃんと選んで愛した。それでもう、人生、なんて贅沢だったろう。生かしてもらえたうえに。遺した少ないものは自由にしてね。


本当にそのものを好き?
なぜ我がものにしたい?
これを持てば、あれをやれば言うこと聞いて愛してくれるだろう?
それは愛じゃなくてビジネス。取り分が少ないと悔しがるんだから。
何を「取り分」とするの?



悩みや不安まで、つくり出しすぎよね。


じゃあねえ、おひるね♪

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