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幻聴 第8章 雅子の決意

「真弓は僕と離婚したがっていました。無念ではありますが、僕は真弓の意志を尊重して、離婚届を区役所へ提出します。一応、お父さまとお母さまにお伝えしておこうと思いまして」

一か月が過ぎ、警察からの連絡はなかった。真弓の両親とも縁を切っておいたほうが安全だと幹生は思った。
「もしかしたら、僕が離婚したのを確認したら、真弓は戻ってくるかもしれませんから」
「妊娠させた女と結婚するんじゃないだろうな」
真弓の父親が幹生に強い口調で言った。
「いえ、そんなことするわけがないじゃないですか。僕はまだ真弓を愛しているんです」
「もとはと言えば、あなたが浮気したのが原因で娘はいなくなったんですから」
母親が責め立てた。
「それは本当に申し訳ないと思っています。付き合っていた女性とはすでに別れています」
「お腹の子はどうするつもりなんだ」
「堕してほしいと言って、お金を渡しました」
「幹生さんがそんなに自己中心的な人だとは思わなかったわ」
「今回のことを反省して、これからの人生を歩むつもりです。お父さま、お母さまには大変なご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「もし真弓が戻ってきたとしても、幹生君には連絡しないよ」
「わかりました。自分がまいた種ですから、仕方ないです。それでは、今までありがとうございました」
引き上げようとした幹生に、真弓の父親が言った。
「真弓を殺したりしていないよな」
ギクリとして振り向き、幹生は答えた。
「まさか、僕が真弓を殺したと思っているんですか」
「女ができて、女房が邪魔になって殺してしまう。よくある話じゃないか」
「確かに疑う気持ちもわかります。でも、僕は絶対に真弓を殺していません。それでは失礼します」
幹生は父親に怒りをぶつけるように言って、車に乗り込んだ。

その足で区役所へ行き、離婚届を提出した。これで自由の身になれた。あれから雅子には会っていなかった。もうそろそろお腹も膨らんできただろう。電話では何度も話をしていたが、幹生は早く雅子に会いたかった。

雅子との新しい人生は、すべてを一新して始めたかった。幹生は両親から引き継いだ家を売ることにした。前からマンション業者数社が売ってほしいと飛び込み訪問をかけていた。真弓の両親は雅子を知らないのだから、引っ越して幹生の住所がわからなくなれば、雅子と結婚してもバレる心配はない。売る理由はもうひとつあった。マンション業者が敷地を買い取れば、今の家は取り壊される。庭もボーリング工事で掘り返される。それによって真弓を敷地内に埋めたという疑いはかけられなくなる。疑問を一つひとつ解消していけば、さらに捕まる可能性は低くなる。

身を隠すことで警察に疑いを持たれてはいけない。警察にだけは引っ越し先を教えておいたほうがいいだろう。真弓の両親は自分を疑っているから、引っ越し先は教えないでほしいとでも言っておけばいい。

仲雅子は不安を抱いていた。自分に子供ができた途端に、奥さんが離婚届にサインしたうえで失踪する。そんな都合のいいことが現実に起こり得るはずがない。期待の代償はそれを上回る大きな不幸であることを、雅子は経験上知っていた。
「妻が見つかるまでは会わないほうがいい。変な疑いをかけられたくないからね」
幹生のその言葉の奥に何かしら暗いものを感じていた。商売上、男の嘘はすぐにわかると自負していた。しかし、それが愛する男となれば、正しい判断ができるかどうか雅子には自信がなかった。幹生を信じたい気持ちもあったが、もしも幹生が奥さんの失踪に深く係わっていたらという恐れを抱いていた。

仲雅子は東北の男尊女卑のいまだに残る田舎町で生まれた。雅子はそんな故郷を早く逃げ出したかった。高校に入ると、雅子は東京の大学に入学し、東京の超一流企業に就職することを目標に決めた。しかし、父はそれを許そうとしなかった。父は雅子が高校を卒業したら、  花嫁修業をさせ、地元の有力者と結婚させようとしていた。そんな父に反発して、雅子は高校を卒業すると、家出同然に東京に出てきた。母は雅子を理解してくれて、東京に住んでいた従姉のもとに行くよう雅子に言い、とりあえず生活ができるほどのお金をくれた。

雅子は叔母の家に下宿し、大学入学を目指すために予備校に通った。しかし、東京のレベルは雅子の住んでいた田舎のレベルとは比べものにならなかった。田舎では成績優秀だった雅子も、予備校の授業についていくことができない。自分なりに頑張ったものの、受けた大学はことごとく不合格となった。自分の実力を思い知らされた。しかし田舎に戻るわけにはいかない。それは雅子のプライドが許さなかった。

いつまでも叔母の世話になっていてはいけない。雅子は大学受験をあきらめて、働くことにした。しかし、東京はそんなに甘いところではなかった。就職先はなかなか見つからず、派遣登録するしかなかった。派遣会社でキャリアを積んで、今度こそ一流企業へ入る。それを目標に仕事を積極的に覚えた。契約期間が切れると次の会社に移った。経験した会社は増えていったが、やることは事務や電話番のようなキャリアアップにつながるとは到底思えない仕事ばかりだった。ハローワークで正社員募集している会社に履歴書を何枚も送ったが、書類審査でさえ通らなかった。しかし、雅子は一流企業へ就職する夢を捨てていなかった。

生活費を稼ぐため、二十歳になると雅子は夜の世界でアルバイトを始めた。雅子はそこで東京のセレブの世界を初めて目にした。そこでは自分の給料の1か月分以上のお金を、客たちがなんの抵抗もなくお店に払っていた。お店には一流企業の重役もたくさん来ていた。雅子は常連だった超一流企業の専務に、自分を雇ってもらえないか相談してみた。専務は親身になって相談に乗ってくれた。
「今度、人事の担当者に話してあげるよ」
専務はそう約束してくれた。

三日後、雅子の携帯電話に専務から電話がかかってきた。今から来るようにと言って、新宿の有名なホテルの名前を告げた。就職できるのか。大きな期待を胸に、雅子は約束の場所へ向かった。

ホテルのラウンジで履歴書を専務に渡した。専務はそれを見ながら、今までの経歴を尋ねた。雅子は正直に話した。女性を認めない田舎町から早く出たくて上京したこと、大学受験に失敗して派遣社員として働いていたこと、生活費を稼ぐために銀座のクラブでバイトしていること、それでも一流企業で働く希望は失っていないこと、すべてを思いを込めて説明した。

「場所を替えよう」
専務はそう言って席を立つと、エレベーターホールへと向かった。雅子は専務の後に従った。専務はホテルの一室に入った。
「君の熱意があまり伝わってこないんだよね」
専務はそう言うと、雅子の腰に手を回した。雅子は驚いて、その手を払った。
「君の熱意をもっと僕に示してくれないと、僕だって人事に紹介できないよ」
専務の口調が厳しくなった。雅子は覚悟を決めた。これが大都市東京のやり方なんだ。自分の夢を叶えるためだったら、処女を捧げてもいいと思った。専務が再び雅子の腰を抱き締めた。
「会社に入れてもらえるんですね?」
雅子は専務の目を見て言った。
「悪いようにはしないから」
専務はそう言って雅子にキスした。後は専務のなすがままだった。雅子はただじっと目を閉じて、専務の行為に耐えていた。ただ夢を叶えるだけのために。

それから専務からは何の連絡も来なくなった。騙されたのかもしれないと思い始めたとき、久しぶりに専務が店に来た。何気ないふうを装って、
「あの件はどうなりましたか?」
と聞いてみた。
「ごめん。今はちょっと空いている部門がないみたいなんだ。空いたら教えてくれることになっているから、それまで待っていてくれないか」
専務は言ってから、ある提案をしてきた。
「仕事は見つけられなかったけど、生活の面倒だったら僕が見てあげるよ。マンションの用意もしてあげるから」
「それは専務の女になれってことですか」
「そんな露骨な言い方はないだろう。僕は君のことを考えて言っているんだから」
「申し訳ないですが、私はまだそこまで落ちぶれてはいませんから」
「失礼じゃないか。もう帰る」
専務は怒りを露にして席を立った。

雅子は自分が情けなかった。なんで自分はそんなに一流企業にこだわっていたのだろうか。日本全国に名の知れた一流企業の偉い人物が、そんなゲスな男だったとは思ってもみなかった。社会で偉いと言われている人間が尊敬できる人間とは限らないことを初めて知った。そんなクズ野郎に自分の貞操を捧げてしまった。雅子はトイレに入って号泣した。

その日から雅子は夜の世界で生きていくことを決意した。金でなんでも解決できると思っている馬鹿な男から金を巻き上げてやる。もう男なんかに騙されてたまるものか。雅子は銀座でも超一流と呼ばれているクラブ風車へと移った。

超一流と呼ばれる高級クラブといえども、結局男の本質は何も変わらないことはすぐにわかった。店には芸能人やスポーツ選手、政治家など誰もが知っている有名人たちが頻繁に訪れた。しかし有名人と言っても、自分たち女性を品定めするような視線はいやらしく下品だった。雅子は男に幻滅していた。

そんなとき、相沢幹生が店に現れた。
雅子は25歳になっていた。幹生は店の中をキョロキョロ見回して、非常に緊張しているように見えた。雅子にはそれが新鮮に思えた。幹生が自分に惚れていることはすぐにわかった。そんなに自分の感情を隠せない幹生を可愛く感じた。幹生は他の客とは違い、お金を稼ぐことの大変さを知っていた。それにもかかわらず、普段の生活を切り詰めてまで、自分のために店に来てくれる幹生を、雅子は愛おしく思った。しかし、幹生は既婚者だった。

二人でアフターに行き、最後の店を出たのは午前2時だった。雅子は幹生の腕に自分の手をからめ、体を幹生に預けた。
「今夜はずっと雅子といたい」
幹生の言葉に、雅子の体は熱くなった。

自分のマンションへ幹生を連れていった。初めて幹生に抱かれた。初めて女の悦びを知った。不倫関係なのはわかっていたが、雅子は幹生と逢瀬を続けた。そして雅子は妊娠した。悩んだ末に幹生に妊娠を報告すると、幹生はそれを喜んで、
「奥さんと別れる」
と言ってくれた。
そして、奥さんも離婚を承諾したという連絡を受けた。二人の幸せな未来が目の前に見えていた。それが突然の奥さんの失踪によって曇り始めた。奥さんが離婚を承諾したというのは嘘だったのだろうか。奥さんが離婚を認めずに口論となって、幹生が奥さんに手をかけてしまったのではないか。その疑問を払拭できない以上は、お腹の子供を生むことなど、雅子にはできなかった。生んだ子供が殺人犯の子供になる可能性もないわけではない。子供ならばもう一度作ればいい。雅子は子供を堕胎する決意をした。
                   <続く>


 

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