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抑圧された意味への意志

最近、フランクルの本を読みあさっている。

その中で、深く共感する部分があったので、ここに書いて置こうと思う。

フロイトの性に関する問いが抑圧されているのではなく、むしろ抑圧されているのは、意味に関する問いであること、また今日では患者たちはアドラーの時代のように、劣等感を抱えて私たち精神科医のもとにやってくるのではなく、むしろ無意味感や空虚感、あるいは「実存的空虚」と私が呼んでいるものを抱えてやって来るのだと言うことであります。

フランクル 意味への意志より

意味に関する問いとは?

意味に関する問いとは、つまり、私の人生にはどんな意味があるのか?と考えること、自分に問うことを意味します。

自分が今ここに存在していることの意味、それを私たち人間は常に探しているとフランクルは本の中で述べています。

彼は、この意味に関する問いが、私たちの無意識に抑圧されてしまっていると言っています。

つまり、私たちはいつからか、自分がここに存在していることの意味、そのものを考えなくなってしまったと言うことです。

意味に関する問いを持つこと

何故、ここに私という存在が在るのだろう?私とは一体何なのだろう?なんの意味を持ってここに存在しているのだろう?こうした人間が持つ根源的な問いに対してフロイトは、こうした考えを持つ人間は、何らかの病気だ!と言うことを言っています。

しかし、フランクルは、フロイトのこの発言とは全く違ったことを言いました。彼は、私たちが意味への問いを持つとき、それは誰よりも正常な状態にあるとそう言いました。

意味への問いを立てることによって、人間は自らの人間性をはっきりと示すのだ!とフランクルはこの本の中で語っています。

つまり、生きる意味について果敢に疑問を投げかける人間とは、フロイトのいう心の病の表現などではなく、むしろ精神的成熟の表現に他ならないのだと彼は言いました。

誰もが、意味への問いを持ちながらも、その意味への問いをその口にすることは、私が思うに、フランクルが生きた時代も、そして私たちが生きる今も何も変わっていない、そんな気がします。

生きる意味を問うものは、この社会から白い目で見られる。生きる意味を問うもの、自分の存在を問うもの、それははたから見れば、どうやら暇人に見えるらしい。

でも、フランクルは、その生きる意味、意味への意志、それをも乙ことは何よりも大切だとこの本の中で教えてくれています。

誰もが求めているが、求めていない生きる意味

誰もが生きる意味を求めているようで、その誰もが、生きる意味を求めてはいない。こう言ってしまうと、なんだか、この文章に恐ろしいほどの矛盾を感じるが、大概の人が、生きる意味を無意識の領域では強く求めながらも、それを意識の領域で否定している。

人間とは本当に面白いもので、求めていながら、それを何故か拒絶してみようとしない。

求めているのなら、求めている、それでいいのに、何故か、生きる意味を必死に求めていると言うことを私知たちは必死に隠そうとする。

これを口にしたら、死刑にでもなるのか?と言うくらいに人間というのは、生きる意味の探求を拒み続ける。

本当はほしくてたまらない。でも、絶対にその口では、それらを求めているとは言わない。

それがなければ、フランクルの言うように人は生きてはいけない。でも、それを私たちは必死になって求めようとはしない。この相互矛盾は一体何なんだろうか?これは最近の私の悩みだ。

ほしくてたまらないそのものをほかのもので代替する

本当に私たちがほしいものは、人間としての生きる意味だ。でも、私たちはそれをどこかで手に入れることが出来ないと諦めている。

だから、目先のものだけでその充たされない心を必死に見たそうとする。ありとあらゆるものをその心に詰めこんで、それで満足しようとする。

でも、いくらその充されない心にものをいっぱいに詰め込んだとしても、それは私たちが本当にほしいものではない。

だから、それらは手にしたとたん魔法のように消えていく。だから、私たちは、永遠に充されることはない。永遠に輪廻の世界でぐるぐる回って生きていることになる。

そんな人生が虚しいとそう思いながらも、私たちは仕方なく今日も、そうした終わりのない輪廻の世界でいつもと何変わらない人生を繰り返す。

そして自分でも知らぬ間に、ずっと永遠に変わらないこのループの世界の中で生きることになんの疑問も持たなくなる。

これは本当に恐ろしい。慣習とはいつの時代も本当に恐ろしいものだ。

誰もが認めたがらない実存的空虚

以上のように、私たちは絶えずこの生きる意味、私という存在があることに対する何らかの空虚感を感じている。しかし、それを私たちは絶対に認めようとしない。

私は充されている。十分に幸せを享受しているとそう豪語する。皆、そんなことをいいながら、心の奥一抹の虚ししさ(実存的空虚)を抱えながらも、その現実に直面することを避け、皆、嘘の世界に飛び込む。

そこで、何もかも充された気になって、現実そのものからどこまでも逃げようとする。フランクルのいきた時代から、私たち人間というのは、本当に何も変わっていないのかもしれない。

生きる意味を問えない。問うというその最重要課題を持ちながら、それを問わずに生きている社会を実現し、その作られたイリュージョンの世界のなかで生きていく。それが私たちなのかもしれない。

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