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社会

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#感情

親に都合のいい闇教育

闇教育について考えた。 親というのは、自分の中にたまった感情を理不尽に子供にぶつける。 何でもかんでも、悪いことは子供に押しつけ、自分は何もないきれいな人間だとそう言った体裁をとる。 子供の言うことは、いつもおかしなことで、大抵の大人には通用しない。 「なにおかしなことを言っているの?そんな訳ないじゃない」 子供が必死になって現状を訴えたとしても、それは親の都合で全て打ち消される。 これらの行為を親は皆、教育だ!という都合のよい言葉の裏に隠す。 いい子にしていな

内的衝動と創造

私たちは自分を表現したいから文字を書く。そして絵を描く、何らかの造形物を作る。でも、今これがAIにとって代わられようとしている。 表現したいから作るのであり、この表現するという部分をなんだか切り落とされてしまっている気がしてならない。 作りたいから、作るのであって、何かが欲しいから作るのではない気がする。作らずにはいられない、書かずにはいられない、何か創作せずにはいられない。こうした強い衝動が私たちの中にはあり、それを私たちは外の世界に向かって表現する。 これは言って

「私」を奪う同調圧力

私たち人間ってのは、ただ何となくに毎日流されている。何をするにもしっかりと考えて筋道を立てて物事を行うという事があまりない。何をするにも、特に深くまで考える事無く、私たちは事を行ってしまう。なので、何かを行為した後に、どうして自分があんな事をしたんだろう?と考える事も少なくない。まだ、こうして自分の行為をかえりみる事が出来ればいいが、それさえも今の私たちにはないのかも知れない。 私たち人間というのは、いつからか色々な事を深くまで思案するという事をしなくなった。何かについて深

これからやってくる未来の幸福感の形

物を買っても買ってもこの心は満たされない。むしろ、買えば買うだけ、空しくなって、幸福感なんて何も感じないとなったら、私たちは一体何を求めるだろうか? 寂しいから、人を求めて、その中にぬくもりを私たちは求めようとする。でも、このぬくもりが自分を満たしてくれない、自分を幸せにしてくれないとしたら、私たちはどうするだろうか? いくら買っても、いくら人のぬくもりを求めても、それらはいつもこの手からするりと抜け落ちて消えていく。自分に十分な幸福など与えてくれない。手にしたその幸福感

鏡の中の美しい私

毎日毎日、私たちは鏡に映る自分の顔を見てうっとりする。そしてその鏡の中にいる自分を誰かに見せたくて見せたくて仕方がなくなる。 鏡の中に映る自分。それはとんでもなく美しい。だから、その自分を私たちは自分だけのものにしておいてはいけないという思いに駆られる。この鏡に映る美、それを自分だけのものにしておくのは罪。多くの人はそう思い、その鏡に映る美しい自分を他とシェアしようとする。 他に自分の美を共有してもらう事で、自分の美というものは確かなものだという確信を私たちは得たくなるの

足るを知らない肥大化した自我によって奪われる私たち人間の在り方

これから、私たち人間が得ようとしている永遠の命について考えてみた。 色々なテクノロジーが進化して、人間はこれからどうやら不老不死を手にしてホモデウス、つまり神の人になるらしい。 何でもかんでも全てを自分達で支配し、そしてコントロールする。何もかも自分達で作り出そうってことらしい。 人間というのは、本当に欲深くて、足るという事を知らない。次から次へと目的を変えて、それを達成させていこうとする。そうやって、人間というのは、自分たちがいかに素晴らしい存在であるのか?を見せつけ

私が悪なのか?それとも私を悪としたものが悪なのだろうか?

世界にはいいも悪いもない。サイコパスという特殊な人間を除き、世界には、善も悪もない。 この善や悪というものを作り出しているのは、私たち。 私たちがいいとか、悪いとか言った概念を作り出して、それをもとに人を判断し始めた。 そのせいで、悪だと判断された者が、その理解力に乏しい人間たちによって悪にされた。彼らを悪にしたのは、想像力を持って相手を理解しようと努めない人間たちによってもたらされた悲しみだ。 私たちは自分達で悪を作っておいて、その悪を自分たちの力で罰しなければいけ

織田信長、徳川家康、豊臣秀吉に見るビジネスリーダーに必要とされる力 Vol1

ビジネスという観点から、信長、秀吉、家康の在り方を考えてみた。 1つの組織を作るとき、その組織のリーダーに必要なのは、この信長、秀吉、家康の持つ3要素が絶対的に必要なのではないかと思う。 この3要素がもし、1つの組織を束ねるリーダーにないのなら、その組織を構成する構成員が持てば、その組織というのはとても強いものになると考える。 織田の様な一見冷酷とも思える在り方。これは組織にとってなくてはならない力だったりする。この何に対しても情というものを挟まない在り方。情に流されて

狂ってるのは私か?それとも世界(皆)か?

人間ってのは、何か危機的な事があったり、辛く悲しい事があったりすると、何かと愛という名の元に1つになろうとする。 これが、私からすると胡散臭く感じてしまう。こういう時ばかり、皆で一つになって、愛だのなんだのって言われると、なんか人間ってくだらねえって思ってしまう。 こういう時ばかり、愛だの、共感だの思いやりだのそう言われると、私の心はますますすさんだ気分になる。 いつも愛など持っていない人たちが、何かあれば人の文句ばかりいっている人たちが、こういう時ばかり、人を思った行

安心を買い求める不安な心

今私たちは強い不安の中にいる。だから、少々高いお金を払ったとしても、何処かに安全といわれるものが売っていれば、それを自分の為に買ってしまう。 私たち人間というのは、常にこの安心というものを求める。 不安になればなるほどに、私たちは盲目的にこの安心と言われるものに飛びつく。安心が欲しくて欲しくて仕方がない。とにかく自分の安全を保障して欲しくて私たちは仕方がない。 私たちは毎日何らかの不安をこの胸に抱いている。それは仕事の事であったり、人間関係の事であったり、自分の人生の事

世界平和を謳うデストロイヤー

もっと色々な事を考えろ!とそう言われても私たちには考える事が出来ない。何故か?それはいつも何も考えていないから。頭を使っている様で、実際には、その頭を何も使っていないから。 私たちは何も考えていない。ただ目の前にある事に反応しているだけで、それに対して何かしている訳ではない。 起こった事に対してただ反応しているだけで、それに対して主体的な行動がとれている訳ではない。ただそこに起こった事に対して、私たちはあーだのこうだのと言って反応しているだけ。 自分の意思を持ってそれに

いじめによってもたらされる強烈なエクスタシー体験

私たちは、いつも何かを壊したいし、破壊したいという強い衝動をその胸に抱えている。何かを徹底的に破壊したい。そして壊したいという強い欲求の様なものを私たちは、この胸に抱えている。 形在るものを、バラバラに壊してしまいたい。そう言った思いは誰の中にもある感情なのではないかと私は思う。 私たち人間というのは、生まれた時から、皆サディストなのではないかと考える。人を殺さないまでも、誰かを批判したり、非難したりして、そこから何らかの快感を得ている。そこに何らかの心地よさみたいなもの

忙しさが生む大量のセルフネグレクト

誰も自分がどうなろうが、何の関心もない。そこの道端で死んでいようが、それを抱き起そうともしない。かもすれば、そこに倒れて死んでいる人の上を固い靴底で踏みつけて歩くだろう。 自分なんてここにいたって、誰の目にも見えてはいない。ここに存在はしている。でも、実際には私は此処に存在なんてしてない。 人というのは、誰かに自分の存在を認めてもらって始めて自分がここに存在しているという事を理解出来る。だれも、自分を認知してくれなければ、いつまでたっても自分は実体を持たない幽霊のようなも

戦争に向かって日々作り変えられる私たち人間の脳

世の中には、人の恐怖や不安をあおって、その人を自分の思う様にコントロールしようとする人たちがいる。 何かとても恐ろしい事が起こると誰かが言ったとする。そうすると、それは多くの人の心の中でシェアされ、どんどんと広がっていく。怖い、恐ろしい。そういった感情を抱かせる事によって、私たちは意識的な状態から、盲目的な状態にされてしまう。 怖い。恐ろしい。その思いが自分の心を支配し始めると、もうそこには客観的に物を見て判断するという思考能力がなくなってしまう。私たちはこの時思考的存在