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社会

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#note

消費によって奪われる人生と命

私たち人間は、消費しながら死んでいく。そんな事をいったらなにそれ?って思うかもしれない。でも、実際にはそうだと私は思っている。 もし死にたくないのなら、その消費というものの意味や構造をしっかりと学び考える必要がある。 ただ何も考える事なく、休みの度にどこかに出かけていってお金を消費する。そんな生活をしていたら、これからの世界ではますます生きづらくなる。 きっとそんな人たちが増えてきたんだろう。最近のCMを見て居ると、3分融資だのなんだの、そもそもが手持ちのお金を持ってい

本当にボランタリー経済は素晴らしいものなのか?(ボランタリー経済の抱える矛盾)

今月のForbs Japanの田坂広志氏の記事に、以下の様な事が書かれていた。 田坂広志氏のいうボランタリー経済というのは、確かにネット革命以降その影響力を大きくはしたと思う。 ネットというものを通して、多くの人がいろいろな地点で様々な情報を共有するようになり、この目に見えない資本というものはつながれてきた気はする。 でも、このボランタリー経済というのも、その背後には、人間の欲が隠されている気がする。 ボランタリー経済とは、相手のためにするということが大前提に立ってい

どうしてわたしたちはリスクを回避しようとするのか?

私たちはなぜリスクを回避しようとするのか?その事についてBingさんに聞いてみました。そしたら次の様な答えが返ってきました。 とここで面白いので、もう一つBingさんに次の質問をぶつけてみました。 どうして人間はリスクを取ろうとしないのですか?と。 帰ってきた答えは以下の様なものでした。 このBingさんに言われた様に、リスク回避ばかりしていると、チャンスや成長の機会を逃してしまう可能性もあるというのは、大いにうなずける回答でした。 私はマネジメントの仕事で、色々な

映画カッコーの巣の上で(人間はどっちだ?)

こんにちは、Recovery of humanityの美月詞葉です。 今日は、1975年に公開された名作『カッコーの巣の上で』について紹介したいと思います。この映画は、ケン・キージーの同名の小説を原作としており、精神病院に入院した男性が、管理主義的な看護婦長と対立しながら、他の患者たちに自由をもたらそうとする物語です。ジャック・ニコルソンが主演を務め、アカデミー賞を含む数々の賞を受賞しました。 映画のあらすじは以下の通りです。 刑務所から逃れるために精神病と偽って精神病

おかれた場所で咲きたがらない私たち

わたしたちは何も知らない。だから、毎日必死になってその自分を創り出そうともがいている。 こう考えてみたことはないだろうか? 何故、こんなに必死になって”私”は、”私なるもの”を作る事に奔走しているのか?と。 必死になって私たちは毎日、自分なるもの、つまりは擬態を作っているに過ぎない。 自分の事を人間であるとそうおもっているから、その人間によせた自分を必死で作り出そうとしている。人間のこうした行為とは本当になぞだ。 人間であるのに、人間であろうと必死に努力する。人間で

環境と呼応する事を止めた私たちが向かう破滅への道

ここへきて、外の環境は大きく変わった。でも、私たちは何も変わらない。人間だけに限らず、この地球上にいる生物というものは、いつも外界の変化と共に生き延びてきた。 外の環境が変化するにしたがって、これまで生き延びてきた生物は、自らもその様態を変化させてきた。そうする事によって、彼らはその命を何とか繋いできた。でも、外界の変化に伴って、自分を変化させる事が出来なかった生物は皆その姿を消した。 今私たちを包むこの世界は大きく様変わりしている。外の環境はものすごいスピードで変化して

社会が作る恐怖のネバーランド

人の流れを止めるなんて事は絶対に無理。だって、皆この社会に多くのストレスを抱えているから。そのストレスが解消されない限り、私たちの動き、行動を止める事なんて出来ない。外国の様に強制力をかける意外、私たちの動きを止める事なんて出来ない。 前にも書いたけど、私たちは皆それぞれにストレスを抱えている。そのストレスを解消する為に、あちこちに出かけて行ったり、何かをしたりする。 もし、この個々が持つストレスを大幅に減らす事が出来れば、私たちはこんなに必死になってまで、危険な外に出て

ストレス社会が作り出すすばらしき世界

息抜きって何だろう?どうして人間には、息抜きが必要なんだろう?煙草を吸うのも、お酒を飲むのも、人と会ったり、どこかへ行ったりするのも、皆息抜きに入る訳だけれど、そもそも、この息抜きって一体何なんだろう? 毎日働いて、週に一回の休みくらい何処かへ出かけたいし、誰かに会いたい。そうやって息抜きしないとやっていけない。 こうした事をとことんまで考え尽くしていった時、息抜きしないと、何らかのストレス解消をしないとやっていけないこの社会とは一体なんなんだ?と思ったりする。 この社

「私」を奪う同調圧力

私たち人間ってのは、ただ何となくに毎日流されている。何をするにもしっかりと考えて筋道を立てて物事を行うという事があまりない。何をするにも、特に深くまで考える事無く、私たちは事を行ってしまう。なので、何かを行為した後に、どうして自分があんな事をしたんだろう?と考える事も少なくない。まだ、こうして自分の行為をかえりみる事が出来ればいいが、それさえも今の私たちにはないのかも知れない。 私たち人間というのは、いつからか色々な事を深くまで思案するという事をしなくなった。何かについて深

人間というもの

人間ってのは、不思議なものでいついかなる時も、目の前にある現実に向き合おうとしないで、いつまでも淡い幻想に浸ろうとする。 こうなればいいなあ、ああなればいいなあという期待ばかり抱いて、今此処にある現実になかなか目を向けようとしない。 何の根拠も示されていないのに、皆適当な希望を抱いて、適当な事を言う。 なんか、全てがずれている様な気がしてならない。現実が此処に在る。でも、それと私たちは並列して歩こうとはしない。現実と私たち人間はもしかしたら、互いに何も触れあおうともして

スクラップ&ビルド(私たちは創造し、そして破壊する生き物)。

人間というのは、不思議なもので一時行動を変えたとしても、そこに絶えず意識を向け、力をかけ続けなければ、又すぐに元の状態に戻ってしまう。伸ばしたゴムが、手を離した瞬間に元に戻るのと状況は全く同じ。 何かを言われて、その時は直したとしても、それは又すぐに元に戻る。 こうした人間ってものを観察していると、自分に絶えず力をかけ続け、その行動を意識し続けるという事が、いかに難しい事であるのか?を思い知らされる。 何でもそうだが、少し慣れてくると人間ってのは、すぐに力を抜く。そうす

それ、わかる!という言葉の表と裏

それ、わかる!とそう言いながら、意外に私たちは、何もわかってない。わかる、わかる!あなたの言っているその事に共感する!って口では言っておきながら、心の中では意外に、何の共感もしていない。 私たちの使う言葉って、本当に浅はか。 本当は何もわからないし、何も共感なんてしてないけれど、口から出る言葉はホント適当。自分の思いと、言葉が全く一致していない。本当は何もわかってなどいない。何も共感など出来ない。でも、相手と言葉をすり合わせる様に、そうしないと不安でいられないから、一生懸

牛と同じ運命をたどる私たち(同じものを与えられ、同じものを享受する人間の末路)。

人間によって、支配され、管理されている牛は、早々に子供を産まされて、そして、それによって出始めた乳を出なくなるまで、人間に搾取される。その乳は、子供の為ではなく、人間の為に絞り取られる。 もうこれ以上ないという所まで、乳を搾り取られた後は、もうその母親牛には、何の用もなくなる。そうなると、人間は、その母親の牛を食用にするために殺す。 こうした悲劇を何も知らずに、私たちは、毎日毎日、肉だ!肉だ!といって肉を食べている訳だけれど、別にそれがいけないという訳ではないけれど、こう

有限なる世界のその先に広がるは、永遠で無限なる世界。その世界の中にこそ生きる事の本質がある。

右を見ても、左を見ても、皆自分ってものを作るのに必死だ。 何とかして、私というものを作ろうと必死だ。私を何とかして形作らないと、どうにかなってしまうかのように、皆必死で、私というものを形成する。 人間というのは、私という全体から独立したものが欲しくて仕方がないらしい。全体の中から、抜け出て、独自の存在になりたい。だから、皆必死になって毎日毎日私を形成する事に命を懸けている。 皆、この全体という世界の中から出て、私という独自性を獲得した気になっているけれど、それは言ってみ