#84 真夜中の身勝手と、風邪ひきのエンジェル【2000字のドラマ】
「もうダメだとおもう‥‥」
本当だった。
『こんなでたらめなヒトとは一緒にやっていけない』
そう思うより先に詩織の手はバッグをつかみ、マスターの顔も見ないでその場を駆け出していた。
『今日連れてきた娘 は礼儀も知らないと思われたならそれでいい。こんなところに私は二度と来ないから‥‥』
『私はこんな世界に住んでいないから‥‥』
1987年。
夜中の西麻布で、詩織はたったひとり、感情の行き場をなくして身震いした。
外に出ても寒いのか暑いのかさえわからない。
タクシーを拾う。
「府中まで行ってもらえますか?」
出てきた言葉がそれだった。
西麻布のバーに残してきたのは付き合って3か月になるひとつ年上の瞬介。
彼との出会いは詩織の勤める病棟のナースステーションだった。
「父がこれからお世話になります」
そう挨拶したのが、その日入院した特別室の患者の息子を名乗るスーツ姿の瞬介だった。
その場にいた全員が手を止める。
いや、息を止めた者もいたかもしれない。
その若者がいなくなると、看護師一同が騒めき立った。
「なに今の人‥‥」「カッコいい~~」「住所、麻布十番だって~」
男といえば患者さんか、病院付属の医学部卒の激務疲れのインターンドクター達しか見ることのない病棟である。東京生まれの洗練された瞬介はたちまち『話題の人』となった。
先輩看護師が「絶対にぬけがけNGだからね~!」と言ったのを詩織は忘れたわけではなかった。
その瞬介が、看護師2年目の詩織に照れながら言った。
「あなたはキャンディキャンディみたいだ」
その言葉が始まりだった。みんなの目を盗んですれ違いに「○○で待ってる」と合図ができるまでに、そう時間はかからなかった。
東京という街をよく知る瞬介とのデートは詩織には夢見心地だった。朝出勤しようと地下鉄に向かえば、大通りに車を停めた瞬介が待っている。出勤前に自分に会いに来る瞬介はまさに白馬のなんとかで、職場までのドライブは詩織をプリンセスにさせるに十分だった。
田舎の質素な家に生まれた詩織にとって、瞬介の、サラリーマンでありながら金銭感覚のないことや、道楽息子的な生活態度が気にかかり始める。
『親に経済力があっても、自分で稼いでいるのだとしても、24歳という瞬介には分不相応だ』と言いたくなる言動がたくさんあった。
『もっと謙虚に生きてほしい』と、
『そういう人でなければ私は一緒に生きられない』と、詩織は思っていた。
「好きだ」と言いながらも自分のために生き方を変えてくれない瞬介に失望しきって、その夜、詩織はタクシーに乗ってしまった。
自分で『外泊』の札を下げてきた看護師寮の門限はとっくに過ぎていた。
帰るに帰れない。
タクシーが着いたのは、瞬介と恋に落ちたので別れた、徹の部屋の建物の前。田舎の高校から一緒に上京して、何があっても側にいてくれた、それが徹だった。
『どの面下げてここに来たかね‥‥』そう自嘲しながらも、詩織はたった3か月なのにやけに懐かしい徹の驚く顔を想像する。
ピンポ~~ン
‥‥
そしてもう一度。ピンポ~~ン
‥‥
どんなに待っても徹の部屋に人の気配はない。
夜中1時半に徹が部屋にいない。
『なんだよ、GW?帰省‥っか』
目の前が暗くなる‥‥横っ面を殴られたような次の瞬間、詩織は初めて我に返った気がした。
『徹なら聴いてくれると思った?』
『私はどこまで身勝手な女なのか』と詩織は自己嫌悪に震えた。徹が居なかったという必然にむしろ手を合わせて感謝した。
真夜中に呆然と外に出て、行くあてもないのに、ともかくコンビニで、詩織は歯ブラシと水を買った。
外に出た詩織に、直立不動の若い男が声を掛ける。
「こんばんは!」
「森アキラと言います。怪しいものではありません。あの~、大丈夫ですか?」
「えっ!?」詩織は慌てた。
『私は大丈夫に見えていない‥‥のか』
「僕とドライブしますか?」
『な、なんで今ドライブ?‥‥』という詩織の心の声とはうらはらに、
「ハイ」と答える。
詩織自身にもよくわからない。アキラが自分と違って崇高に見えたからかもしれない。
『こんなこと普通だったら絶対にしない‥‥』
なのに詩織はアキラのとなりに座っている。
「ナンパ目的であそこにいたんじゃないんです。あなたがあまにりも呆然としてたから‥‥
僕は放っておけなかったんです」運転しながらアキラはそう言った。
詩織と同い年だというアキラは風邪を引いていた。
ゴホゴホ咳をしていたので、ナンパ目的じゃなかったことは詩織にもわかった。
時に咳き込みながらも、詩織の恋愛の経過を聴いてくれたアキラは、詩織が指定した新宿駅のワシントンホテルの前で詩織を降ろした。
「とにかくここにあなたが無事でいる。こうして会えたのは奇跡だね。悔いのない選択をしようね」という言葉を残して‥‥
『アキラさん。エンジェルかよ‥‥』
拝啓 森アキラさん。途方に暮れていたあの夜、あなたが手を差し伸べてくれて私は守られました。
34年後のあなたはどんな人生を送っていますか?
きっと今でも誠実に、素敵な人たちに囲まれていることでしょう。
私ですか?
ひとりの人を愛して、家族ができました。来年は結婚して30年になります。 詩織
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