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【映画レビュー】『フェイブルマンズ』:スピルバーグでも苦しいんだ

 あのスピルバーグが、映画を撮るようになったいきさつを描いた自伝的な作品だと聞いて、これはぜひとも観たいと思った。
 彼だって最初は自主製作映画を作っていたはずだ。でも、スピルバーグと自主製作映画って、なんだか対極にあるような気もする。
 どんな話なんだろう、どんな映画になっているのだろう。期待はどんどん高まった。

スピルバーグ作品とは思えない地味さ

 まずもって、あの『インディ・ジョーンズ』シリーズを作った監督と同じ人が作ったとは思えないというのが第一印象だった。カット、シーンを細切れにして、目まぐるしく展開させ、観客を全く飽きさせずに楽しませる作品とはまったく違った。
 『シンドラーのリスト』のような社会派の作品も作るが、それとてもエンターテイメントとして成功させてしまうのがスピルバーグだと思っていた。
 それらに比べて、この作品は、ひと言でいえば、地味である。でも、もしかすると、スピルバーグは、この作品を作らずにはいられなかったのではないかと思う。なぜなら、そこには、創作する者の根源的な葛藤や苦しみが描かれているからだ。これは、映画を撮る者・芸術作品を生み出す者の哀しみを描いた作品ではないかと思った。

テーマ1「映画を撮るということ」

 この映画では2つのテーマが描かれている。一つは、「映画を撮るということ」について。もう一つは「家族、特に母親」について。
 まずは、前者の「映画を撮るということ」について書きたい。
 映画のラストに、「史上最高の映画監督」(誰なのかは映画を観てのお楽しみ)を登場させ、「心がズタズタになるが、それでも映画を撮りたいか」と言わせている。この言葉が、スピルバーグ作品から出てくるとは意外だった。そういうのとは無縁で、エンターテイメントとして映画を作り上げるプロフェッショナルの人だと思っていたからだ。スピルバーグのような映画監督でも、そんなことを思うのだというのが意外だった。

まさに『トニオ・クレエゲル』

 この作品では、スピルバーグの少年時代を投影させた主人公サミーが、映画を撮ることに夢中になっていく様子が描かれている。最初はただ楽しくてやっているのだが、学校でいじめを受けたり、家族がばらばらになったりして、実際の生活がうまくいかなくなっていく中で、映画作りから離れてしまう時期がくる。
 しかし、サミーは、再び映画を撮ることを選択する。映画を撮ることによって、高校での自分の地位も回復する。しかし、それはある意味、実人生での喜びをあきらめるということでもあった。恋人も失ってしまった。
 やがてサミーは、大学をやめて映画の道へ進むことにするのだが、働き口がなくて、ボロボロになる。そのときに、先ほど紹介した史上最高の映画監督の「心がズタズタになるが、それでも映画を撮りたいか」を言う言葉を聞くのである。
 ここで私が思い出すのは、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』である。『トニオ・クレエゲル』は、芸術家の苦しみを描いたバイブルような小説である。芸術家は、観察者・表現者になるために、現実の只中を生きることをあきらめなくてはいけない。一歩引いた位置に立たざるをえない。そして、作品を生み出すのと引き換えに、実人生で喜びを得ることをあきらめなくてはいけない。それでも芸術の道を選ぶのか。いや、選択の余地はなくて、そういう風に生きることしかできないから、芸術家になるのだ……というような根源的な葛藤を描いた小説である(と私は思う)。
 ああ、『フェイブルマンズ』は、まさに『トニオ・クレエゲル』ではないかと思った。

テーマ2「家族、特に母親について」

 サミーにとって、映画を撮ることの苦しみは、それだけではなかった。サミーは、映画を撮ることによって、母親の重大な秘密暴いてしまい、家庭を崩壊させることになってしまったのである。母親が父親以外の男性に思いを寄せていることを明らかにしてしまったのだ。このエピソードが、一番、心に響いた。
 それは、芸術家の苦しみという普遍的なレベルではなく、個人のエピソードレベルの苦しみではあるが、サミーが映画を撮らなくなった大きな要因だった。
 そのようにして、第1のテーマ「映画と撮ることの苦しみ」が、第2のテーマ「家族、特に母親について」と、とてもうまく絡められているのは見事だ。
 いま「第2のテーマ」といったが、映画全体としては、こちらのテーマのほうが比重が大きい。全体の根底を貫く第1のテーマの伴奏の上に、主旋律として第2のテーマが流れているような感じだ。
 映画で描かれているのは、父や母のことであり、ユダヤ人であることによって学校でいじめられたことであったりする。特に、母親への愛は切ないほどに強く浮かび上がる。母親はある意味、身勝手な行動をする人なのだが、人間としてはとても魅力的な人として描かれる。母親を演じたミシェル・ウィリアムズは輝いていた。

作っておかないといけない作品だったのでは

 これらのエピソードが実話なら、スピルバーグの苦しみに深く共感する。人間は、いくら社会的に成功しても、私的な悩みに苦しみ、満足しきれないものだと思っていた。スピルバーグでも同じだったのかということに気づけて、なんだかほっとした。
 そういう意味で、この作品は、スピルバーグが作りたかった作品、いや作っておかないといけない作品だったのではないかと思うのである。 


 映画を観終わって、スピルバーグが少し好きになりました。でも、もしこれが実話ではないとしたら、こんな作品を捏造できてしまうスピルバーグの策略に慄くばかりです。きっとそんなことはないと思うのですが…。
 こういう自伝的作品を見た後、『インディ・ジョーンズ』を見直してみるのもいいかもしれないなと思います。 

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