【映画レビュー】『福田村事件』:人間の中にある「社会的なもの」と「私的なもの」
総体的な話になるが、韓国映画は日本映画に比べて、力があるし、面白いと感じる。その一つの理由として、社会の矛盾や自国の負の歴史といった、目を向けたくない、ときには、隠蔽されるような社会的なテーマをきちんと取り上げ、エンターテイメント性のある映画として仕上げているからだと思う。躊躇したり、遠慮したりしないからこそ、そういうことができるのだと思う。
この映画は、負の歴史と正面から向かい合っていて、ずっしり重いのだが、群像ドラマとしてもエンターテイメント性の高いものになっていて、面白い。日本でも、こうした映画がもっともっと作られてほしいと願う。
とにかくまずは見てみるべきだ
乱暴な話だが、自分が日本人だと思う人は、この映画を観ることを必須にすべきだと思った。それくらい、この映画が取り上げている過去の事実は重い。
日本人が、過去にどんなにえげつないことをしたのか。どんなに主体性がなかったのか。どんなに愚かなのか。どんなに間違っていたのか。どんなに偏見にまみれていたのか。
それほど重い過去なのに、この「福田村事件」を知っていた人がどれくらいいるであろう。私も、この映画に出会うまで、知らなかった。
取り返しがつかない、償いきれない負の歴史ゆえ、受け入れがたい人も多いだろう。あら探しをしたり、否定したりすることに躍起になる人も出てくるかもしれない。でも、それはこの映画に多くの人が触れた後の話である。なにはともあれ、まずはみんながこの映画を見てみるべきだと思った。
ここでは、この映画が取り上げている歴史的事実については触れない。先ほど言ったように、それについては、自分の目で映画を観たほうがいいと思うからだ。なんだか逃げている気もするが、別の観点からこの映画のことを語りたい。
人間は「社会的な欲求」と「私的な欲求」を抱えている
人間は、「社会的な欲求と「私的な欲求」の両方を持つ。人間は、そのどちらかだけでは、生きていけないのではないかと思う。たとえば、政治的活動に命をささげながら、恋愛や性愛に心を奪われずにはいられなかったりする。
社会の中で自分の力を発揮したり、社会に何らかの影響を与えたり与えられたり、社会に認められたり、そういうことがないと、何のために生きているのかわからなくなる。
しかし、なぜか、それだけでは生きてはいけない。恋だの愛だの、あえて周りと隔絶されたところに身を置きたくなる。周りと切り離されたところに喜びを見出したくなる。大金持ちになって社会的に成功しても、満たされるとは限らない。
「社会」と「私」に引き裂かれる
その2つは、たいていは交わらない。一人の人間の中にまったく異質な2つの要素が存在しているような状態だ。一人の人間が2つに分裂しているみたいだ。
私のような者でも、仕事などを通じて、社会的に認められたいという気持ちがある。一方で、自分が好きな一人だけの笑顔が見られればそれで十分だと思うこともある。そんな時は、社会などどうでもよくなる。
しかし、ときには社会的なものと私的なものが一体になることもある。
私がこのnoteを書いているのは、社会(数人かもしれないが)に向けて自分の意見を発表したい、社会からの反応をもらいたいという欲求があるからである。しかし、自分自身の中で、映画を観たという体験に決着をつけて自己完結したいという超私的な欲求を満たすためでもある。そういう意味では社会的なものと私的なものが一体になった幸せな活動なのかもしれない。
アンジェイ・ワイダ監督は、『地下水道』のような社会派映画と、『白樺の林』のような恋愛映画を交互に撮っていたという。それは、さも、社会的な自分と私的な自分のバランスを保とうとしているかのようである。その気持ちはすごくよくわかる。
社会と私の両面を描くから面白い
映画から話がそれて、前置きが長くなってしまったが、この作品は、社会的なテーマと個人的なものの両者を含み持っているところがいいと思った。
朝鮮人や社会主義者の虐殺、さらには日本人同士の虐殺ということに至ってしまった、非常に重い歴史事実。そういうものをもたらした社会構造や意識構造。事件への憤り、反省など、社会的なものを真正面から引き受けようとしている。
一方、社会的事件が起きる中でも、人々の個人的な日常生活は脈々と続いている。そこでは、浮気があったり、夫婦間の性的な問題があったりする。人々は、社会と隔絶された、公には言いたくない様々なできごとを抱えていて、そこに浸ったり、苦しんだりしている。
先ほど言ったように、人間には社会と個人の両面があり、どちらかだけでは生きていけない。両者を抱えながら、引き裂かれながら、時には一体となりながら、生きているのだ。
登場人物の多くに、そうした両面が丁寧に設定され、描かれているが、中でも秀逸だと思ったのは、東出昌大が演じた役である。
東出が演じた船頭は、出征中の夫がいる婦人と通じ合ったりするだらしない男であるが、朝鮮人虐殺や軍隊の横暴さには毅然として反対する面も持つ。個人的な面と社会的な面のアンバランスな絡み合いが、とても魅力的に思えた。
ほかにも、外に見せる社会的な立場と、個人的できごととしてのエロスのギャップを抱え持つ人物が何人も出てきた。そのように人間の両面を描いているから、この映画がドラマチックで、リアルで、面白いのだと思う。歴史的啓蒙だけに終わることなく、エンターテイメントとしても成功しているのだと思う。
冒頭にも書きましたが、学校などでしょうもない道徳教育などする時間があるなら、この映画を必須にすればいいのにと思ってしまいました。
歴史を知らないことは罪だと思います。今は、あまりにも歴史的事実を知らずに、社会問題を語ることが多すぎるように思います。私自身もそうです。そういう状況だと、また同じ過ちを繰り返してもおかしくはない気がします。
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