上下水道の歴史② ~明治維新による水道・下水道の文明開化~
日本における上下水道の発展について、全3回に分けて紹介します。
前回は、江戸の優れた「和製水インフラ」を紹介しました。
第2回は、明治維新を起点にした上下水道の変遷に注目します。
明治の西洋化トレンドに、上下水道は大きく影響を受けました。この時期に、水道・下水道に関する学問の体系化も加速しました。
明治維新と近代水道の普及
1868年の明治維新後、新政府は西洋の技術を取り入れ、近代的な上下水道システムの整備を開始しました。
近代水道が普及した大きなキッカケは、1886年のコレラ大流行です。
前回の記事では、江戸の優れた上下水道システムを紹介しましたが、さすがに明治維新後の急速な社会変化には対応しきれず、水系の衛生環境が悪化したことがコレラ流行の原因でした。
当時、死者は全国で10万人に達したと言われています。
そこで、明治政府は近代水道・下水道の整備を喫緊の課題として、1887年には日本初の浄水場、野毛山浄水場を整備しました。その後、東京や大阪など、主要都市を中心に水道が整備されました。
この時期に整備された水道は、水質を良好にする処理機能や配水管が導入されるなど、現代の水道と同様の特徴を持っていました。
1890年には、水道条例が制定されました。現代と同じく、地方自治体主導で水道事業を経営・整備することが定められ、全国的に水道の普及が進みました。
水道の整備は、単なる生活用水の供給を超え、公衆衛生の向上にも大きく貢献し、水系の感染症撲滅、乳幼児の死亡率低下などにも寄与しました。
水道に遅れをとった下水道
1884年には、東京で日本初の近代下水道、神田下水が整備されました。西洋式のレンガ造りです。
なんと、今もJR神田駅付近の地下で、現役で使われています。
一方で、近代的な下水処理場の整備は、浄水場の普及に対して劣後しました。
1900年には下水道法が制定されましたが、下水道の整備は主要な大都市の排水機能に留まっていました。1923年に、ようやく日本初の下水処理場「三河島汚水処理場」が整備されました。
特筆すべきは、都市部の住宅地化や人口肥料の普及に伴い、1921年に東京市が市営のし尿汲み取り・市外への排除、投棄を開始したことです。江戸時代、し尿は貴重な肥料として農地循環していたことは前回の記事でご紹介した通りですが、この時期を境に、かつては有価物だったし尿が、廃棄物になりました。
資源循環型社会を目指す現代において、再考すべき転換点かもしれません。
下水道の本格的な普及は、1960年代の高度経済成長期、公害の深刻化を待つことになります。詳細は、次回の記事で紹介します。
上下水道の学問 『衛生工学』のはじまり
当時、世界最先端の水道・下水道技術を有していたのは、産業革命を経たイギリスでした。そこで明治政府は、英国人の水道技師、パーマー技師を指導者として招聘し、日本最初の近代水道を横浜に整備しました。
当時、日本には”sanitary”に該当する日本語がありませんでした。そこで、内務省に務めていた長与専斎は『生命をまもる基本として、環境を整える活動』を、"sanitary"=”衛生”と訳しました。
翻訳の際、専斎は荘子の書の中で「衛生」という言葉が「生命を衛る」という意味で使われていることを発見し、 引用したと言われています。
(一般社団法人 日本衛生学会HPより)
1887年には、上下水道のイギリス人専門家であるバルトンを招聘し、東京帝国大学の衛生工学講座 初代教授を務めました。(当時31歳!若い。。)
その後、バルトンの講義を受けた中島鋭治をはじめとする日本人たちが、東大、京大、北大、九州大などで衛生工学の教鞭を取り、近代水道・下水道の発展を支えました。
これが、土木と医学のすきまを埋める上下水道の学問、『衛生工学』の始まりと言えそうです。
(参考:『環境衛生工学の回顧と展望』 土木学会論文集No. 552/V11-1, 1-10, 1996. 11)
まとめ
明治維新をきっかけに、江戸の『和製水インフラ』が西洋化していく変遷をたどりました。わずかな期間で、西洋の水道・下水道技術を輸入し、社会実装した先人たちの偉業に感服します。
また、長与専斎が『生命をまもる基本として、環境を整える活動』を『衛生』と定義したことを踏まえると、従来型のエネルギー大量消費社会から転換を目指す現代において、『衛生工学』は、他の専門分野と横断的に複合・融合していく余地がまだまだあるように思えます。
衛生工学を学んだ筆者としては、その知見を、どうやって社会に還元すべきか、引き続き考えていきたいです。
次回は、上下水道の歴史③として、高度経済成長期~現代の水道・下水道に焦点を当てて、最終回にしたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。