見出し画像

「与えよう(GIVE)」よりも「与えたくない」を大事にしよう。

さいきん、noteが日記化していて、それくらいのテンションがいちばん書きやすいなあ、と思っています。

誰かに届けようとするよりも、思考の垂れ流し的に書く方が性に合ってるみたい。
「たった1人を想像して届ける」とライティングのアレコレには書かれていたけど、フレームワークって正解じゃなく手段の一つだから人によって合う合わないってあるよね。(自己正当化👈)

ここ最近あたまの中で保留しているテーマに、「与える、ギブってなんだろう」があります。

きっかけは、ハードボイルドグルメリポート

突然ですが、netflixの「ハイパーハードボイルドグルメリポート」って番組ご存知ですか。(知らなかったらぜひ観て!!)

生きることは、すなわち食べること。危険や困難の中で暮らす人達は、どんな食事をして日々を生き抜いているのか? 食を通じ、驚くべき世界のリアルを見てみよう。

ハイパーハードボイルドグルメリポート 番組概要より

スラム街やゴミ山、キャビア密猟の現場、命の危険に関わる鉱山採掘、収容所から出所したばかりの元受刑者など、社会から周縁化されている人たちをインタビューするドキュメンタリー番組。主にレポートするのはそこで生活する人々の「食」。人類共通の「食べること」を取材することで視聴者に当事者性を持たせる個人的にとても好きな番組です。
テーマが重くなりがちだからこそ、小藪さんをMCにしたり、構成にユーモアを持たせているところも「企画した人すげーーーー!」と思っています。

その番組でね、ケニア最大のゴミ山で暮らす青年のレポートをした回があるんですけど、「与える」について考えさせられたシーンがあります。

ケニアのゴミ山に住む18歳の青年ジョセフは、毎日ゴミ収集車のトラックに乗ってプラスチックや金属を集めて売ることで生計を立てています。

生計を立てているといってもせいぜい一食分が食べられるか食べられないかのギリギリのラインの小銭を毎日ごみの匂いにまみれながら仕分けすることで得ているのです。

ジョセフは、そうやってやっとの思いでありついた煮豆で炊いたご飯を、日本から来て明らかに自分よりも裕福であろう番組ディレクターに「食べる?」といって分け与えたのです。

取材最後には「あなたに逢えてほんとうによかった。ありがとう。」と番組ディレクターへの感謝の言葉を贈りました。

…ジョセフ。なんて心が綺麗な青年なのか!!

そして、ハイパーハードボイルドグルメリポートにおいて「ご飯を分け与える」という行為をしている人たちは他にもいるんですよね。

火葬上で物乞いをする家族や、鉱山採掘で命の危機と直面しながら働く青年…。みんな自分たちに余剰があるわけではないけれど「他者に分け与える」ことを自然とやっている。そして、「できればここから抜け出したい」「将来はお医者さんになりたい」「家族と会いたい」などといった夢もあれば、現状に苦悩もしています。

喜怒哀楽、人間らしい感情に溢れているし、表情が死んでいないというか、ゆたかだなあ、とわたしには見えました。

「与える(贈与)」と「等価交換」の違い

わたしは大学の専門が国際協力で、紛争解決や文化人類学などを学んでいた時期があり、ハイパーハードボイルドグルメリポートは文化人類学のフィールドワーク的な番組だなあ、と感じました。(取材は短期間だろうけど)

「与える」とはなんだろうという問いと、文化人類学的だなあという視点が交わって松村圭一郎さんの「うしろめたさの人類学」という一冊の本にたどり着きました。

この書籍の中での一説を引用します。

ぼくらはいろんなモノを人とやりとりしている。言葉や表情なども含めると、つねになにかを与え、受け取りながら生きている。そうしたモノのやりとりには、「商品交換」と「贈与」を区別する「きまり」があると書いた。

「うしろめたさの人類学」

著者である松村さんは、商品交換と贈与を以下のように整理しています。

「商品交換」=想いや感情が差し引かれた等価交換のこと
(例 商品棚から商品を選び、お金と交換する)
「贈与」=感情や想いが込められたやりとりのこと
(例 誕生日プレゼントやバレンタインのチョコレートなど)

「うしろめたさの人類学」より加筆修正

つまり、「与える(贈与)」は交換ではなく、一方的でも成立します。そしてそこには、「なんらかの想いや感情」が込められている。

わたしが前回の記事で書いた無職酒場の「恩送りのシステム」がまさに贈与だったんだなあ。

「うしろめたさの人類学」を読んでいて腑に落ちました。
そうか、ゴミ山に暮らすジョセフは贈与をしていたんだ。感情が死んでいない。自分が毎日生きるのに精一杯な環境でさえも、心が乾いていない。だから日本から来た番組ディレクターに「ご飯を与える」ということが出来るんだな、と。

心が乾いていないこと。
それはつまり、他者への思いやりや、感謝や、与えることの喜びを感じ取ることができる心の状態。

「与える人が成功する」に対する違和感

少し前に、アダム・グラント著の「Give&Take 与える人こそが成功する時代」という本が話題になりましたよね。

本の内容さておき、マーケティング戦略とわかっていながらもわたしはこの「与える人こそが成功する時代」という書籍の副題に違和感があったのですが、それがなぜなのか当時はわからなかったんですよね。でも「うしろめたさの人類学」を読んで思考の補助線を貰い、今はその時抱いた違和感の理由が明らかになりました。

「与える」という行為と「成功」という結果を因果関係で結んだ途端に、そこには「想いや感情」が排除されてしまう感じがしたから。

つまり、「与える」という行為は、はじめから個人的な「成功」を目的においた途端に「贈与(Give)」ではなく「等価交換(Give&Take)」のニュアンスが強まる。

「わたしやビジネスの成功という目的のために、あなたに与えます。(だからわたしと、密な関係を結んでね。)」という意図が隠れている。
だからわたしは「人脈」という言葉を使う人があまり好きではないのか!という発見もありました。

「与える人が成功するから」という理由で人間関係をハウツー的に捉えて他者になにかを与えた場合、その行為には、"与える側の目的のための戦略的なGiveという前提"が付置されるんですよね。
それは、感情や想いの込められた「贈与」ではなく、取引の関係、「等価交換」になってしまいます。

わたしは、そんな風に贈与を捉えたくない。
だからこそ、「与えたくない」という気持ちにも正直でありたいなと思いました。

潤った心を守るために、自分で感性を殺さない

わたしが今回の記事「与える」について問いを持つようになったきっかけがあります。わたしとAさんはあいさつ程度でAさんのことをあまり知らない状態で、Aさんから「●●の人を紹介してください」と言われて断った、という出来事がありました。色々考えて断ったのですが、「わたしケチかも?器小さいのかも?」と気持ちがしばらくモヤっとしたんです。

そんなモヤっとを出発点にぐるっと思考を一周して改めて思うのは、「まだあまりどういう人かを知らないのに無責任に紹介できないなあ」という湧いてきた違和感に無理に正当な理由をこじつけて「与えよう」としないことがわたしにとっては大切なプロセスだったんだ、ということです。

メリットデメリットをあたまで考えて「与える」の方がメリットしかないじゃん、としないこと。

「贈与」は本来ピュアな想いや感情で渡したいし、届けたいから。
だからこそ、「ちょっと嫌だな」にも正直にいよう。

わたしがわたしの感情に気付いてあげなければ、誰がわたしの感情を守れるのだろう、と思ったから。自分に嘘をつきたくないし、感じる心を潤わせていたい。

その方が、結果として「贈与」が増えるような気がしています。





あなたが自然体で、心地よく過ごせるのが一番のサポートです💐