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エッセイ│日曜日の温度

 私がまだ小学生だったころ、日曜日にはどこか涼しい風が吹いていたように感じます。地球温暖化で昔より暑くなったとか、そういう話ではなくて、体の内側を満たしている空気のこと。朝、居間にある一番大きなテレビで仮面ライダーを見ていました。居間の掃き出し窓からは空の青い部分が差し込んでいました。ずっと遠くまでつながっているのだと思えるような澄んだ青色でした。
 
 そんな日曜日の温度が変わっていたことに気が付いたのは、東京の1Kの部屋。当時お付き合いしていた相手は私の家から電車で一時間ほどかかる街に住んでいました。週末になると彼女はよく私の家まで会いに来てくれて、土日を一緒に過ごしていました。
 朝、朝食の準備をする。トースターの中で食パンがじりじりと焼けていく、甘い小麦の匂い。駅から少し離れるけれど、朝になると窓辺にはたっぷりと陽光が降り注ぐ部屋。前の年のクリスマスに彼女がくれたコーヒーミルで豆を挽く、もこもこと湧き上がる泡をしばし見つめる、穏やかな時間。眠い目を擦りながら小さな食卓に着く。トーストにバターを塗るカリカリという音も、二人分のお皿をのせるとぎゅうぎゅうになる小さなテーブルも、あまりに愛しく、温かかった。
 そういえば実家にもこんな温度があったとふと思い出す。お前も飲むかと、父が入れてくれたコーヒー、こんがり焼けた食パンの匂い。ダイニングの窓からはバターみたいに柔らかい光が差していた。テレビでは海外の朝食を紹介する番組が流れていた。
 トーストをかじりながら胸が苦しくなった。とても温かくて、柔らかくて、優しくて。でもどこにも行けないような気がした。満たされていた時間の、色あせた写真を見ているみたい。今日は天気がいいから、どこかに出かけようか。彼女は嬉しそうに頷いてくれた。

 涼しい風の日曜日が、温かい日差しの日曜日になった。それはきっと、終わりがあることを知ってしまったから。楽しかった週末が終わり、また苦しい仕事の日々が始まる。大好きな人と過ごせる2日間が終わり、ばいばいしなくてはいけない。緩やかに続いていくこの幸せな時間にもきっといつか終わりがくる。意識しているわけではないけれど、薄い不安と寂しさに覆われていく。その予感を遠ざけようとする度、優しい時間は鮮明で、苦しいほどの温かさで満たされていくのです。

 日曜日の澄んだ空の青さが鮮明だった頃、涼やかな風に背中を押されて、自転車一つでどこまでもいけるような気がしていました。今、日曜日の温度は何かが終わる予感から生まれたものかもしれません。けれどそこにある、トーストの甘い匂いに包まれる優しい時間も、触れる手の柔らかさも本当のことだと思います。私たちは、小さな自転車ひとつじゃどこまでもはいけないことを知ってしまった。けれど、目の前にある大切な時間に触れられることも知った。苦しくなったり、不安になったりもする、それでも私は、今の日曜日の温かい温度が好きです。

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