試験にはたぶん出ない古語クイズ(2022/07/06)

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 正解は「③相撲」でした。

 ご存じの通り、七月七日は「七夕(たなばた)」です。
「織姫星(ベガ)と彦星(アルタイル)」に関する伝説は、中国から伝わった「乞巧奠(きこうでん)」という風習が、日本古来の「棚機姫(たなばたひめ)」の伝承と融合して現代まで続いています。

 奈良時代に成立した『万葉集』にも、七夕に関する恋の歌が数多く残されています。

【 原文 】
彦星(ひこぼし)の妻迎へ舟漕ぎ出(づ)らし天の川原(かはら)に霧の立てるは

【 現代語訳 】
天の川に霧が立ち始めたので、これから彦星が妻を迎えるために船を漕ぎ出すようだ。

(『万葉集』、山上憶良)

 七月七日は宮中でも様々な行事が開催されましたが、一番古い記録(奈良時代)によると、「七夕に関する詩の作成」と「相撲の観戦」が行われていたことが知られています。

 後者の相撲観戦は「相撲召合(すまいのめしあわせ)」や「相撲(すまい)の節(せち)」と呼ばれる行事で、諸国から腕の立つ人々が集められて左右の近衛府(このえふ)に分かれ、天皇の御前で競い合いました。今で言う「天覧相撲」です。
 奈良時代から平安初期にかけては七月七日、平安中期以降は七月中旬から下旬と、開催時期が少しずつ後ろに移動し、鎌倉時代には廃止されてしまいました。

【 原文 】
秋七月七日、天皇(すめらみこと)、相撲戯(すまひのわざ)を観(みそなは)す。是の夕べ、南苑(なんえん)に徒御(うつりおは)し、文人(ぶんじん)に命(おほ)せて、七夕(いちせき)の詩(し)を賦(ふ)せしめ、禄(ろく)を賜(たま)ふこと差(しな)あり。

【 現代語訳 】
七月七日、聖武(しょうむ)天皇は相撲を観戦した。その夕方、南苑(なんえん)に移動し、文人たちに命じて七夕の漢詩を詠ませ、出来に応じた賞禄を与えた。

(『続日本紀』)

 相撲の起源と言われているのは、『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇の時代に登場する、「野見宿禰(のみのすくね)」と「当摩蹶速(たぎまのけはや/たいまのけはや)」という二人の力比べに関するエピソードです。彼らが御前で試合を行った日が「垂仁七年七月七日」で、初期の「相撲召合(すまいのめしあわせ)」が七月七日に行われた始まりだと言われています。
(中国から「乞巧奠(きこうでん)」が伝わる前から、相撲が行われていたという説が有力です)

【 原文 】
二人、相対(あひむか)ひ立ち、各(おのもおのも)足を挙げ相(あひ)蹴(く)う。即(すなは)ち、当摩蹶速(たぎまのくゑはや)が脇骨(かたはらほね)を蹴(く)ゑ折り、亦(また)其(そ)の腰を踏み折りて殺す。

【 現代語訳 】
二人は向かい合うと、足を上げて蹴り合った。やがて、野見宿禰(のみのすくね)は相手の肋骨(ろっこつ)を蹴り折り、腰を踏み折って殺した。

(『日本書紀』)

 勝利した野見宿禰(のみのすくね)は現在も「相撲の神様」としてあがめられています。ただ、ご覧のように最後は相手の命を奪う、文字通り生死をかけたハードな試合内容でした。また、今の相撲とは異なり、足による攻撃がメインで、ムエタイやキックボクシングに近いルールだったようです。

 なお、時代が下った平安中期の相撲の様子が『今昔物語集』に記されていますが、やはり試合後に力士が命を落とす話があり、長らく命がけの競技だったのは間違いないようです。


【 主な参考文献 】

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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