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『Gran Turismo(グランツーリスモ)』(2023)を観て

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District 9(第9地区)』や『Elysium(エリジウム)』、『CHAPPiE(チャッピー)』などで知られるNeill Blomkamp(ニール・ブロムカンプ)が、人気ゲームシリーズである「Gran Turismo(グランツーリスモ)」を実写化。「Gran Turismo」のコアプレイヤーであるJann Mardenborough(ヤン・マーデンボロー)が本物のレーサーになったという実話を基にしている。
Gran Turismoのプレイヤーからレーサーに育てるというGTアカデミーの試みやJannの物語、Neill Blomkampのメカ愛、そしてなによりブリリアントなレースシーンの数々についてはもう作品を観てくださいとしかいえないのだけれど、ここでわざわざ本作をそうした文脈以外で取り上げたのは、本作がある種のフィクションを愛する者たちへの最大のエールとなっている点があるからだ。

一般的に、フィクションとの付き合い方は以下のような2種類のタイプに分けることができる。一つは、現実に何かしらの利益をもたらすための手段としてフィクションを利用するタイプ、もう一つは、フィクションと付き合うことそれ自体で充足を得るタイプだ。前者については、たとえば「コミュニケーションを円滑にするために流行りの作品を観る」といった行為が挙げられる。これに対して後者は前者ほど明瞭に定義することは難しい。否定神学的な言い方になってしまうけれど、「前者の範疇に収まらない行為すべて」といってもよいかもしれない。言い換えると、いわゆる社会性のようなものが希薄な行為が後者に該当する。たとえば、誰に披露するわけでもないのにある作品に登場する人物名とその人物のプロフィールをすべて暗記することで満足感を得ている場合などだ。そういう意味では、前者を「社会的受容」、後者を「個人的受容」と名づけてみてもよいかもしれない。
もちろん、一人の人間がゼロイチできれいにどちらかに分類されるわけではないし、ある一つの行為が必ずしもどちらかの分類されるとも限らない。ある人がときに社会的にフィクションを受容することもあれば、ときに個人的に受容することもあるし、同じ行為でもそれがより社会的なものとして機能する場合とより個人的なものとして機能する場合があるはずだ。

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