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ネガティブ人間

いつも明るいね、元気だね、ポジティブだね、すごいね、タフだね。そんな人に言われるいわゆるポジティブな褒め言葉が多い人間ほど、実は根はとってもネガティブであることをご存知でしょうか。陽のあたる場所がキラキラ輝いて、さも素敵に見えるのは、日陰や夜の暗さや静けさがあるからこそなのです。昔の東洋医学を作ったおじいちゃんたちはよくぞ言葉にして表現してくれたものでありますが『陰極まれば陽となる』それが我々、陽キャに見えて実はド陰キャ人間たちなのであります。

私自身、自分の陰な部分に気づいていくほどに、こんな自分の側面は人に見せてはいけない、好きじゃない、そう思っていた時期もありました。きっと多くの隠れ陰キャ、隠れネガティブさんが思うことです。しかし、それは、世の中では、明るい・元気・ポジティブが正道である、みたいなそんな勝手な思い込みが生んだ解釈なのです。陰って別に悪いものではなく、使っているいわゆるエネルギーの注ぎ方の方向性だけの話なのです。良い悪いはそこには存在しません。陽って太陽のような、ぐんぐん伸びる枝葉のような、発散だったり、上昇する方向性を表現したものなので、例えば、外で元気に遊んでる子供や、目標に向かってアクティブに行動している人。陰は川に例えられるような下方向に注ぐ、落ちる、集まるような、そんな収束、凝集性、下降するエネルギーを表現したものなので、例えば、家で一人黙々とゲームしてる子供(けど知識半端ない)、何かに意識を1点集中で注ぐマニアさん、推し活さん。表面には見せない、集めに集めた思いからくる強いこだわり、集めに集めた豊富な知識を持ちます。

何を隠そう、私もその陰キャの部類の人間なのであります。陰極まれば陽となってる私も、対外的にはよく褒められます。ポジティブな面を。しかし、この根はネガティブ陰キャが心を開いた時にしか見えてこない、片手で足りるほどの少ない友人の中でもさらに親しい友人にしか見せない、しみずみゆきが存在するのです。本当に昔から友達が少ないのです。リアルに片手で足りるんですよ。逆に片手くらいの人にしか意識をそそげないのです。両手だと忘れちゃう人が出てきますよ。不器用ですが、その分注ぎます。そんな初めて会った時には感じなかったであろうちょっと小めんどくさいネガティブ陰キャ部分を知ってでも、そこを含めて愛してくれているそういった数少ない友人は本当に貴重です。

みなさんも自分や周りの隠れ陰キャを見つけるには、その人の保育園・幼稚園くらいの時の、子供の頃の遊び方を思い出したり、聞いてみたりしてください。そこにその人の本質、リアルな『好き』が隠されております。私は、保育園の登園ギリギリまでテレビに一人かじり付き、帰ってくれば、おままごとも、近所を走り回るのも、川で遊ぶのも、一人遊びです。そこには自分で今日の目標や壮大なストーリー展開をちゃんと設定・イメージし遊ぶこだわり様です。泥団子を作らせたらこんなに綺麗に作る人はいないと褒められたくらいツルッツルにする職人芸です。

もちろん対外的には良好な陽キャでいられますので、人とも遊びます。それはもちろん楽しいと感じるのですが、楽しい反面、気を使いすぎて疲れます。無意識にやってしまうことなので、気を使わなくていいよという言葉を使うのは我々には無意味な働きかけです。下降性のエネルギーの使い方が好きなのに、人に意識を向ける、人に気を使うというのは、文字通り外に気が散るからです。だから、基本一人で遊ぶのが好きで、一人時間がないと同じ空間にいる他人に無意識に気を使いすぎて帰ってからダウンします。

大人になってもその本質というのは変わらないのものなのです。基本、一人で黙々と何かに熱中しているのが好きで、たまに人とごはんに行ったりして交流することでバランスをとっています。その熱中する何かが、私の場合、うまいこと仕事に関係する『人間の体や心』であり、その小項目が『東洋医学』や『内臓』、『女性の健康医学』だっただけです。注ぎ始めたらすごい集中力を見せるのが、我々陰キャなのです。マニアになれる素質を持ってます。というか、すでにマニアです。

だから思うのです。ぼっちはぼっちな自分が好きならそれでいいし、無理やり世間や他人に愛されようとする必要もないのです。けど、自分だけはそんな不器用な自分がどこまでも好きなのです。
決してネガティブを恥じる必要はなく、むしろ私のネガティブは対外的にはポジティブに大変換されたからこそ、今の私がいる、とまで思っております。
ネガティブバンザイ。


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