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私はナニモノか

自営業をしていると、よく『ブランディング』なんてことを考えたりするのです。開業した2015年からずっと。もう8年も自分を決めきれずにいる。そんな感覚ってあるのです。本当は広く知られるためには、集客するためには、『〇〇の人』って一言で言えるようなわかりやすさが大事。でも、自分がやっていることって、整体って表現だと違うし、セラピストって表現だとぼんやり広すぎるし、内臓治療は得意だけどそればっかりしてるわけじゃなく、現代人を整えようと思うと、エラーしてる人ばかりだから、必要だからどうしても中心になっているだけで。もし現代人の内臓壊すような生活習慣や要因がなくなったら、必要ないからその時代に即したものに転換して施術するだろうし。だから、そこにものすごくこだわりがあるわけではない。ただ、触れることが得意で、触れることで情報を読み取る能力に長けていて、その能力を活かして人を笑顔にしたい。そのツールが施術なだけなので、一言でカッコよくネーミングできないのです。だから、お客さんにも聞いたことがあるけど、みんな『うーん、なんだろうね…』ってなるのが私の施術であり、私なのです。なかなかパッとネーミングできないぼんやりのまま8年間。よくやってます。

そんなネーミング迷子はきっと私だけでなく、開業している人だけの悩みでもなく、『私は何が好きなのだろう』『私は何が得意なのだろう』そんな問いが頭の中にふとよぎり、じっくり考えてみる。そんな自分に対して想いをよせる時間ってありますよね。自分という人間で、自分だけの人生を、目一杯生きていきたい。そんな風に、生きることにアグレッシブな人は一定数いるはずです。私もそんな人のうちの一人であり、自分の才能を余すことなく存分に自分の人生に活かし、世の中に活かして、やり切った感と共に死にたい。そんな私は例外なく、度々そんな自分という人間に対して想いにふける時間があります。

人は自分という人間を誰よりも理解したいと欲していて、けれども近すぎるがゆえに、一番理解不能な存在でもあり、主観的な感覚とともに客観的視点で俯瞰する必要があります。そんな客観的視点で自分をネーミングすると、なんとなく自分がどんな人間であるかを表現しやすく、そのために自分がどんな人間であるかの代名詞を欲しがるものです。例えば、警察官だと職業だけ聞いても、その人の姿を見ずとも、なんとなく姿形だけでなく、その人の内面までイメージができてきますよね。逆に画家だったらどうでしょうか。また正反対なその姿形、内面をイメージできます。そんな自らの職業で表現する人もいれば、優しい人、几帳面なきっちりした人、ゆるい人、なんていろんな表現はあれど、その客観的視点からの立った一側面のから見ただけでつけられるそのネーミングで、一度は『あ、私ってこんな人間なんだ』と安心感を得る。しかし、何度も何度もまたこの問いに悩まされるということは、そうでもあるけどそうじゃないのでしょうね。さらには『まるでそうであるかのように』の自分を生きようとしてしまうことで、自分をさらに見失う。そんなこともあります。尚更、自分が何が好きで、何が嫌いで、何が得意で、何がしたいのか、そんな単純そうな質問の答えがわからなくなる。自分迷子と化すのです。

でもね、何度も何度も迷子になった結果、思うのです。
なんでもいいんじゃないかな。
だって自分は自分でしかないから。
しゃーない。








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