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はてどなく尽きることないかけがえのないもの

テーマ:フリー

「買って返せばいいんでしょ!」

そういうことじゃないんだよ、母よ。いや、それでもいいっちゃいいんだけど。

世の中、大抵のものはお金で買えるし、買えば事足りることも多いと思っている。

フィクションのなかで「愛は金では買えない」とどこぞの誰かが真っ直ぐな瞳で言い放つシーンがあるが、そんなもん人によるだろうし、考え方次第で投げ売りされる愛もあるだろう。

なんて斜に構えたことを言っている私が、金なんぞでは到底どうにもならない「かけがえのないもの」について考えてみたというのが今回のお話。


さて、ここに1人の女子高生がいる。千葉県生まれ千葉県育ち、高校生になるまで1人で電車に乗ったこともないような、生粋の田舎娘だったころの私だ。

現在の私の姿を知っている人は「ウブでいたいけな感じ」を8割増しくらいで想像してほしい。

高校2年生のとき、そろって演劇部に所属していた私と彼氏の2人で、東京の聖蹟桜ヶ丘へ観劇に行った。千葉県の成田から東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘まで、東京を横断する、なかなかの遠出だ。

観劇後、普段目にすることのないオシャレなお店に目をキラキラさせながらウィンドウショッピングを楽しんでいた私は、とある雑貨店の前で足を止めた。クリスマスに向けて飾り立てられたディスプレイのなかに佇んでいたのは、サンタクロースのキャンドルだった。

レトロな色彩で細かくサンタクロースが描きこまれた美しいキャンドルに、私はなぜか、とても惹きつけられた。けれど当時の私には、東京横断の交通費と演劇チケットで散財したあとに1,000円近くするおしゃれキャンドルを買う勇気はなかった。

「あぁ、こんなに美しいキャンドルは成田では買えないだろうなぁ」

後ろ髪を引かれつつ、帰りの電車に乗ったのを今でもよく覚えている。

それからしばらく経ったクリスマスの日、私は彼氏とクリスマスプレゼントの交換をした。私があげたものはもう忘れたが、もらったものは覚えている。

細長い包みのなかから現れたのは、聖蹟桜ヶ丘で出会ったサンタクロースのキャンドルだった。聞けばわざわざ現地まで足を運んで、あのとき私が足を止めた雑貨店で買ってきてくれたのだという。

「でもさ、それ買ったあとだったんだけどさ、成田のジャ◯コでおんなじの売ってるの見ちゃったんだよね」
嬉しそうにキャンドルを見つめる私に、彼は恥ずかしそうに言った。

そうじゃない。そういうことじゃないんだよ。同じだけど、同じじゃないんだよ。

「私が欲しかったのは“この”キャンドルなんだ。だからとても嬉しいよ」

そう、成田のジャ◯コでは、私が欲しかったキャンドルは売っていないのだ。あのときのキラキラした気分、キャンドルを目にしたときの美しさに感動した気持ち、そして現地まで買いに行ってくれた彼の思い。

彼が贈ってくれたのは、お金では買えないもの全部乗せの、たしかにかけがえのないものだった。


お金で買えないのは命や心に限らないなんて、誰でも知っているだろう。
なのになぜ「買って返せばいいんでしょ」「謝ればいいんでしょ」などと言えるのか。

同じ一瞬に存在したものとは二度と巡り会えないと考えれば、物だってなんだって替えのきかないものばかりだ。

ただ一方向へのみ流れ続ける時間のなかで、何が自分にとって「かけがえのないもの」なのか。それぞれの価値観による取捨選択があるだけだ。

耳のちぎれかけたぬいぐるみ、毎日使ってた100均のマグカップ、ヨレヨレのタオルケット、学校帰りに友達と何気なく買ったおそろいのコスメ、片割れを失くしたピアス、1本欠けた色鉛筆セット。

同じものを買ってきたって、同じものじゃないんだ。

そんなわけで、自分から見てどうであろうと、他人の価値観は尊重せねばならんなぁ、と思う次第である。誰だって、どんな物だって、誰かにとってかけがえのない存在であるかもしれないのだ。

そう考えると、愛犬が大事にくわえているボロッボロのブランケットでさえも捨てがたい。

だが母よ、私は寛大だ。

買ったときのワクワク感まで返せとは言わないから、楽しみに隠しておいたはずのファミマのフィナンシェを、買って返してくれなさい。なる早でだ。

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