死んでみたら、生きたいと思った
死にたかった私がこの世とあの世の境目で感じた本当の気持ち
大阪に、生きながらにして死を体験できる店がある……と聞いたら、あなたはどのような店を想像するだろうか。
その店の名は、逆転変身専門店「シタイラボ」。2019年7月、東大阪にオープンした知る人ぞ知る謎の店だ。
シタイラボとは、どんな体験ができる店なのか。筆者が実際に体験した内容をレポートする。
シタイラボとは
逆転変身専門店「シタイラボ」は、フォトグラファーである新レイヤ(あらたれいや)さんが立ち上げた「死と死体の疑似体験」ができる店だ。
「メメント、モリ 死生観を逆から考え生を刻む」(公式サイトより)を理念に掲げ、客が希望するあらゆる死を演出し、自らの死生観を問う機会を提供する。
シタイラボの主な体験プランは次の4つ。
白装束で棺に収まり弔ってもらう「入棺白葬プラン」
本物の僧侶がお経をあげてくれる「入棺白葬導師読経プラン」
自分が希望した死に方を体験しながら現場検証される「現場検証プラン」
「現場検証プラン」と「入棺白葬導師読経プラン」がセットになった
「エンバーミングプラン」
どのプランでも、客が扮する死体やプラン進行中の様子を新さんが撮影し、作品として仕上げてくれる。撮影された写真は当日2枚のプリントを持ち帰れるほか、後日追加のカットがデータもしくはCDで納品されるシステムだ。料金は4万4000~9万9000円(税込)。気軽に出せる額ではないが、公式サイトの情報だけでは高いか安いかの判断はしかねる。
「死にたい」から生まれたシタイラボ
2022年の日本全国の自殺者数は2万1881人。なかでも小中高生の自殺者数は500人超と、過去最多になったという。
このニュースを目にしたときに、ふと頭に浮かんだのがシタイラボだった。以前ネットで見かけて、サブカル的なイメージで記憶に残っていた謎の店。
あらためてシタイラボについて調べてみると、このサービスはこれまでになかった死へのアプローチであり、正面から生を問うものではないかという気がした。
そもそもシタイラボ立ち上げのきっかけは、新さんの友人が3カ月にわたり毎日繰り返した「死にたい」という言葉だったという。幼少期からいじめで苦しんだという新さん自身も、10代の頃に自殺未遂した過去を持っている。
「自分自身も死にたい、消えたいと望んだ時期があったから、死にたい気持ちを否定したくなかった。『生きてたらいいことあるよ』と言うのではなく、『じゃあ死んでもらおう』と思った」
友人を(疑似的に)殺そうと考えた、というのは「死にたさ」がわかるからこその発想だと思う。
こうして、いまだかつてない死体変身体験ができる店「シタイラボ」は誕生した。
死んでみようと思ったワケ
「もともと死に興味があったから」
「自分の最期はどんなことを思うのか試してみたかったから」
「生前葬のつもりで」
「いじめられていた過去の自分を殺したくて」
シタイラボを訪れる人の思惑はさまざまだ。自分の性癖を実体化しにくるという人も多い。そして、どんな理由でもシタイラボは受け入れる。
私の場合「死にたいと思ったことがあるから」というのが今回死んでみることにした一番の理由だ。漠然とした希死念慮が自殺念慮に変わり、ギリギリで死を免れた経験もある。それ以来ずっと、死との境目を感じて生きてきた。体感にして約15センチ。歩道と道路の段差ほどのわずかな高低差で、死は常にそこにある。
そんな私がこの世とあの世を隔てる境界線を超えたとき、一体何を感じるのか。
これは、体験しないわけにはいかないと思った。
死体と葬儀の欲張りセット「エンバーミングプラン」
逝くと決めたら、公式サイトの問い合わせフォームから希望する日時とプランを送信する。せっかくの機会だ。豪勢に逝くべきだろう。私は迷わず「エンバーミングプラン」を選択した。
続いて「エンバーミング要望書」に自分が希望する架空の死亡日時や死体発見当時のシチュエーションなどを記入して提出する。
公式サイトのギャラリーを見ると、皆さんいろいろとぶちまけて華やかに亡くなっている。
思いっきり派手な死にも憧れるが、私には以前から夢見ている死に方がある。それは、人里離れた森の中で苔とキノコを生やして死ぬことだ。自然死ではつまらないので、少しだけ不可思議な要素を加えて要望書を提出した。
現場検証
シタイラボの詳細な住所は体験日の3日前に知らされる。体験当日の午前10時、雨が降るほどではないがどんより一歩手前の曇り空。同行人兼カメラマン役の女性1名とともに、東大阪の住宅街にある体験場所を訪れた。
出迎えてくれたのは、シタイラボの代表であり写真撮影を担当する新レイヤさんと、介添師の結樹(ゆうき)さん。2人ともすでに鑑識官の衣装を着ている。
事前の確認で死因を尋ねられ、「苔死(こけし)」と答えた。
ウィッグや衣装、メイク道具などが並ぶ部屋の中で、変死体になるための「変死化粧」が始まった。変色した肌を表現するために緑色や茶色のドーランを塗り、苔やキノコを肌に接着していく。
これから死ぬといっても、女性4人でキャッキャと会話しながら作業を進めているので雰囲気は和やかだ。
変死体が完成すると、ブルーシートで覆われ5~10分ほど1人で放置される。この間に死の世界へと没入していくのだ。
しんとした緑深い森の中で横たわる、自分の姿を思い浮かべてみる。
さらに、体の表面から体内にキノコの菌糸が食い込んでくる感覚を想像する。不思議と気分は穏やかだ。
あぁ、私、死ぬんだなぁ……。
誰にともなく、「ありがとう」という言葉が頭に浮かんだ。
「ありがとう、バイバイ」
とても満足して、私は苔死した。
放置タイムが終わると部屋のドアが開き、新さんと結樹さんによる現場検証が始まる。
小道具を駆使しながら、本物さながらの現場検証が展開していく。コントのような会話で要望した通りのストーリーを演じてくれるのが嬉しい。
死んでいるので、状況をつぶさに見ることはできない。自分という存在が確かにここにあるのに、完全に物体として扱われていることに不思議な疎外感を感じた。
結樹:キノコ、かわいいですね
新 :ええ…(苦笑)
結樹:どんな味がするのか
新 :そっち!?
しばしば軽妙なやり取りが笑わせにくるので油断ならない。物体であるにも関わらず、妙に口角と腹筋に力の入った死体になっていた気がする。
体中にキノコを生やした死体の鑑識作業を終えた2人の鑑識官が、「キノコパスタを食べに行こう」と話しながら退場して現場検証は終わった。
入棺白葬導師読経
入棺白葬の前には、死にたい理由やこれまでの人生について僧侶と対話する時間が設けられている。
話を聞いてくれるかとうれいさんは、「僧侶でニューハーフでAV女優」という、とても情報量の多い肩書を持つ方だ。
今回死を望んだ理由を話すようにうながされ、私は子どもの頃から感じていた周囲との断絶について話した。
いつのころからか、世界と自分は薄い膜のようなもので隔てられていて、なんとなく居心地が悪かったこと。
1回目の離婚をきっかけに、それまで漠然と感じていた「消えてしまいたい」という思いが「希死念慮」だと自覚したこと。
2回目の離婚を経験して、人間関係を断ち切り森の中で死にたいと願うようになったこと。
かとうさんがうんうんと頷きながら聞いてくれると、つらい言葉がふぅっと溶けるような気がして、ほっこりする。
気がつくと、30分も話していた。本職の僧侶を30分も独り占めして話を聞いてもらえるなんて、とんでもなくぜいたくなカウンセリングだ。
僧侶との対話が終わると、入棺白葬の準備が始まる。事前に選んだ真っ白なドレスをまとい、ウィッグを装着して棺の中に横たわった。棺の中は気をつけの姿勢で少しだけ横幅に余裕があるくらいのサイズ感。窮屈な感じはなく、むしろ妙に気分が落ち着く。抜群のフィット感だ。
つけまつげを着けてからは目を閉じた状態でメイクが進む。ここからは、葬儀が終わるまでほぼ目を閉じたままだ。生まれて初めてのつけまつげ装着で、目を開けていいのかわからなかったというのもある。
両手両足を縛られ「あ、動けない」と感じたときに、なぜか一瞬、ゾクリとした。
旅立ちの準備が整ったら、一度棺のふたを閉めてしばらく放置される。すぐ眼の前には故人の顔を見るための小窓があり、私は棺の中から扉の裏側を見上げている状態だ。薄目を開けた視界にあるのは、扉の隙間から薄く差し込む光の筋と、ぼんやりと白い壁だけ。不思議と圧迫感はない。閉じ込められたような感覚もなく、むしろ包まれているような気さえする。
「思い出多き、ご生涯。故・みゆき様は、数えきれない思い出を残し、令和5年4月26日15時、めくるめく人生を終え、とこしえの眠りにつかれました……」
なんともいえない安らかな心持ちでいるところに、「白葬の儀」が始まった。
葬儀が始まり棺の小窓が開かれても、私自身は死んでいるので何も見えない。自然と耳に意識が集中する。導師を務めるかとうさんの読経が始まった。よどみなく続く読経の間を縫って、窓の外から近所の子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。
昔は自宅で葬儀を行うのが普通だった。葬式と日常が隣り合わせることは特別でもなんでもなく、今よりもずっと、死は身近にあったのだろう。
子どもたちは、TikTokで流行っている「可愛くてごめん」を熱唱している。ちょうどお経が途切れたところで、最後の「ざ・ま・あ!」を絶叫するように歌い上げるのもよく聞こえた。
読経の次は、弔い言葉が読み上げられる。
弔い言葉は、故人に捧げる最後の言葉だ。本来であれば客が自分自身に向けてさまざまな設定で自由に書くことになっている。
今回の弔い言葉は、あえて自分では書かずに親しい友人に書いてもらった。もしも私が死んだときには、必ず葬儀に参列してほしいと考えている人物の1人だ。
ぜひあなたに、私の死を想像しながら書いてほしいと言ってお願いした。
文字数にして300文字たらず。わずか1分半の朗読を身じろぎもせずに聞きながら、私はぼんやりと矛盾を感じていた。いつのまにか、両目に涙がにじんでいる。
死んだ私に向けてつづられた言葉を、死んでいる私が聞く。これは、現実では絶対に起こり得ないことだ。現世に残してきた者の言葉を死者が受け取り、涙を流すなど、あり得ないのだ。
今自分は、本当にとんでもないことを体験している……。ここにきてようやく、そんな実感が湧いた。
死人の心境の変化などお構いなしに棺のふたが外され、今度は「お別れの儀」が始まる。
弔い言葉を入れた封筒が胸元にそっと置かれた。体の周りがユリの花で埋め尽くされていく。
やがて出棺の時間がきた。いよいよ、この世とのお別れだ。
私の顔のすぐそばでつぶやくように、あるいは指先でそっと頬に触れながらささやくように、参列者から最後の言葉がかけられる。
私はもうすぐ火葬場へ運ばれて、焼かれて、骨だけを残してこの世から消滅するのだ。
棺の小窓が閉じられ、視界が暗くなる。ゴッゴッゴッと棺のふたを固定する釘打ちを再現する音が何度か響き、かとうさんの出棺経が始まる。
「故・みゆき様、ご出棺」
コォーン。出棺を知らせる最後の鳴り物の音が響きわたり、滞りなく葬儀は終了した。
さて、現実の葬儀はここで終了だが、シタイラボの「白葬の儀」では、さらにもう一段階続きがある。最後の工程「この世への更始」だ。棺のふたが除かれ目を開けると、みんなが笑顔で「おかえりなさい」と出迎えてくれた。結樹さんとかとうさんが真っ白な花びらを振りまいて祝福してくれている。
「これであなたは、新たなあなたですからね」
かとうさんが微笑みながらはんなりと言う。
この世への更始。「更始」とは、古いものがあらたまり、新しく始まることだ。
私は、還ってこられたのだ。
メイクを落とし着替えを済ませると、新さんから2枚の写真を収めた台紙を渡される。これで、エンバーミングプランは終了だ。
シタイラボで疑似死体験をした客のもとには、後日残りの写真が納品される。納品メールには、こんな文章も添えられていた。
シタイラボが提供する疑似死体験の料金は、決して高くはない。むしろ安いと、私は思う。
死んでみたら、やっぱり生きたいと思った
シタイラボを訪れる理由が人それぞれであるように、疑似死体験で感じることもまた人によって異なる。
現場検証プランを体験したZEAMIさん(40代男性)は「死とはただの無だった。もともと死を特別なものとは思っていなかったが、シタイラボで死を経験した結果、より死を特別なものと思わなくなった」という。
中学生の頃の夢がエンバーマーだったというだけあって、死に対する捉え方がニュートラルだ。
大切な人を亡くした経験があり、死後の世界を想像することがあるというなっきーさん(30代女性)が体験したのは、入棺白葬プラン。死んでからではわからない、自分が死ぬ感覚に興味があったという。「貴重な体験だったと思う。死生観や考え方は変わらないけど、あらためて向き合うきっかけになった」
また死体ラボを利用したいと思うか、という質問には「利用したい。悩んでいるときにシタイラボで一度死んだ、という感覚があればどうせ一度死んだのだからという気持ちで乗り越えられそうだから」と答えてくれた。
では、この世での最後の瞬間に、私は何を感じていたのか。
葬儀中は、心の中はとても穏やかだった。もう誰も憎まなくていいことに安堵し、救われる思いだった。
しかし出棺の直前、突如として激しい感情の波が襲ってきた。
待って。まだダメだ。このまま消えてしまったら、もう誰にも何も、伝えられない。誰の言葉も気持ちも受け取れない。
手が動かない。足も動かせない。声も出ない。
どうして、ありがとうバイバイなんてのんきに死んでたんだろう。友人の弔い言葉は、あんなにも悲しんでいたじゃないか。
千葉から来たんだ、大阪グルメももっと堪能したい。
「いややーー!! 還りたい!!」
これが、私がこの世から消滅する直前に感じていたことだ。理想通りの最期を遂げ、手厚く送り出された結果がこれだ。
本当の死じゃなくてよかった。気持ちよく死ぬために、もっともっと面白おかしく生きて、充実しきった状態での苔死を目指そうと、本気で思った。
死んだら届かない大切なこと
同行人と弔い言葉の書き手、今回私の死に関わった2人の友人は何を感じたのか。
約6時間にわたって一部始終を見守ってくれた同行人は「生きているうちに自分ができることをしたいと実感した。周囲の人との関わり方についても考えるようになった」という。「言いたいことは死んでからじゃ言えないから、素直になる必要がある人に体験してほしい。家族の入棺白葬を体験したら、今のうちに言いたいことや思いを伝えられることに感謝するのでは」とも。
弔い言葉の作成に真剣に取り組んだ結果、かなり凹んだという友人は、実感のこもった様子で語ってくれた。「一度は長文を書いてみたものの、もう届かないんだな、と思い省くことにした。死んだら伝わらないという事実に直面し、生きているうちに伝えたかったと強く感じた。先立つ人がいること、自分自身もいつ死ぬかわからないと考えたら、人との接し方をあらためようとも思った」
結果的に3人が3人とも同じようなことを考えたというのは、とても興味深い。
死んだら何も伝えられないし、死者には何も届かない。
こうして書くと当たり前すぎることだが、疑似的にとはいえ実際に死を体験した今の自分にとっては、あらためて胸に刻むだけの重さがある。
エンタメ型デス・エデュケーションのススメ
体験直後のインタビューで、自分の気持ちで頭がいっぱいになりうまく質問が出てこない私に、新さんは言った。
「いいじゃないですか。人生で、そんなに全力で自分を感じることってないですから」
新さんは、シタイラボで提供する死と死体の疑似体験を「エンタメ型デス・エデュケーション」と表現している。デス・エデュケーションとは、死と向き合うことで今をどう生きるかを問う死の準備教育のことだ。
客が望む通りの死を演出し写真を撮り続ける新さんが、シタイラボを訪れる人に望むこととは何か。
「まずは自分の大切さを感じてほしいですね。『私死んだ』って考えてるときって、めっちゃ生きてるんですよ。本当に死んだら、もう自分が死んだことなんて考えられない。自分の気持ちでいっぱいになって、ワケがわからなくなるくらい自分と向き合える時間って現実にはないから。それを感じてほしいんです」
たしかに、話すことはおろか身動き一つできずに死体として存在するしかない状況では、イヤでも自分自身と向き合わざるを得ない。劇的な舞台で死を見つめる、まさにエンタメ型デス・エデュケーションだ。
「シタイラボで、死にたい気持ちを肯定されるとかいうのはおまけみたいなもん。死の体験によって自分を大事にしてもらえたらいいな。自分を振り返るなり、それこそ過去の自分を殺したんやったら『今までお疲れ』の労りのケーキでも買ってあげて。そういう、自分を甘やかす気持ちであったりとかをみんなに感じてほしいなって」
そう語る新さんは、体験の最初から最後まで、死体に対してとても優しく丁寧だった。
死にたい理由は人それぞれだ。苦しみや悲しみから逃れたい人。ただなんとなく死にたい人。自殺したいわけじゃないけどこの世から消え去りたい人。密かな性癖を満たしたい人。
シタイラボは、全世界全人類どんな「死にたい」にも力の及ぶ限り応えてくれる。しかし、私はやはり、苦しみから逃れるために死にたいと考えている人にこそ、疑似死を体験してほしいと思う。
人は本来、一生に一度しか死ぬことはできない。つらい気持ちを抱えたまま、自分の死を知ることなく死ぬなんて、もったいなさすぎる。
もしもあなたが死にたいと願うことがあったなら。「死にたい」と口にする気力があるうちに、シタイラボを訪ねてみてほしい。
自分はなぜ死にたいのか。選ぼうとしているその死に方で本当にいいのか。本当はどうなりたかったのか。死んで後悔もできなくなる前に、1回死んで、よく考えてみてほしいのだ。
「死にたい気持ち」を否定するつもりはない。けれども私はできることならば、あなたに死んでも生きてほしいと、願わずにはいられないのだ。
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