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言葉の許可証

こんばんは、みゆです。
今日から日記のようなコラムのようなエッセイのようなブログのようなものを書いてみたいと思います。ちなみに、そのあたりの違いはよくわかってません。

わたしはすぐ「ちゃんとした文章を書かなければ。」と思ってしまうタイプの人間なので、最初にこれだけはお約束したいなと思っているのが、”本音”で書くこと。わたしにとってこのnoteという場所は真っ白なキャンバスのイメージ。絵を描くキャンバスには嘘偽りなく、魂でぶつかっていかないと本当に描きたい絵は描けない。

あと、わたし自身、綺麗なだけの文章は好きではないです。その人の光とか闇が感じられる文章が好き。それは絶対、その人が本音で綴っているものだから響く。と思っているので、わたしもこのnoteでは本音で綴りたいなと思っています。

もしかしたら時々口が悪かったり、理解しにくいような文章になるかもしれませんが、ごめんなさい。純度高くお届けしたいと思っているので、そんな一面も含めて愛してくれたら嬉しいです。

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もともとわたしは「言葉」を扱うことが苦手です。
幼い頃から親に「主語が抜けている」とか「言葉が抜けていて、何の話かわからない」などと注意をされてきました。さらに大人になるにつれて、その「言葉」の難しさを思い知るようになりました。

例えば、わたしはただこの間あった嬉しいことの話をしているのに、それを聞いている友だちはわたしの話を聞いて「自慢話だ…」と捉えていたり、「よかったね!」と言ってくれているのに目が全然笑っていなかったり。良かれと思って言ったことで相手を傷つけてしまったり。

言葉は難しいなとやっぱり、思います。

わたしはイチゴが好きだけど、夫はイチゴは好きではない。イチゴという単語をとってもその人によって「言葉」に何かしらの意味だったり、感情だったり、イメージが付いている。
つまり、イチゴという言葉を使っても、ポジティブに捉える人もいれば、ネガティブに捉える人もいる。わたしはイチゴと聞くと「わぁ!食べたい!」となりますが、夫は「ふーん、イチゴか…食べても食べなくてもいいな。」となるように。

私たちはこの「言葉」にくっついたイメージを含めてコミュニケーションを毎日とっているので、そりゃあ難しいよなとも思うのです。だって、相手のその言葉にくっついているイメージまでは把握しきれないから。わたしとその人では好き嫌いも違うし、生まれてきた環境も親も違うから違っていて当然でもあるけれど。(あれ、ここまでの話なんとなくわかりますか?ついてきてくれると嬉しいけど、このまま続けますね。)

どうやったらわたしの言葉は人に伝わるのか?もっと頑張らないといけないんじゃないか?誤解されたくないし…ちゃんと説明しなきゃ…
気づけば、そんな思いがグルグルもする。

でも、そう考えれば考えるほど、気分が悪い!
あーやっぱりわたしが悪いのかなぁ、なんて見えない誰かに正解を押し付けられている気分になる!!!正解押し付けられるとうざいと思ってしまう!自分が一番わかってるもーんって拗ねたくなる。

だからわたしは配慮したいときは配慮するけど、基本的に「このままでいいや」って開き直っちゃいました。こんな文章書いたら誰かを傷つけてしまわないかな?と、気を使って飲み込んでいた言葉や思いを「誰かを傷つけてもいい」っていう風に捉えてみました。これは言葉を凶器みたいに使うって意味ではないです。誰かを意図的に傷つけるのはもちろん、違う。

そうではなくて、人一倍傷つきやすくて、優しいからこそ、人のことを傷つけたくない!そう思っている人に届けたい。「たとえ、人を傷つけてしまってもいい」ということ。
「傷つけてはいけない!!」と自分で自分に手錠をかけているのを傷つけても大丈夫だよと、ほどいてみるのはいかがでしょう?

案外、言っても大丈夫だった!ってことの方が多いです(実体験)。


MIYU

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