文字を持たなかった昭和 二百五十七(正月出、しょがっで)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちのお正月。元日正月料理事始めについて書いた。本項では「しょがっで」、漢字を当てると「正月出」であろうお正月のお呼ばれあるいはお招きについて。

 「しょがっで」はいろいろなケースがある。ちょっとした年始の挨拶に伺い、お雑煮をいただく程度のものから、事前に日取りとメンバーを決め、正月料理を振舞うものまで。ミヨ子、そして子供(わたし)たちにとって毎年恒例だったのは、ミヨ子の実家での「しょがっで」だった。

 だいぶ前に触れたがミヨ子の実家は同じ集落にあり、徒歩で10分もかからなかった。ミヨ子の弟が結婚後、やはり同じ集落内に建てた家の敷地に、両親(つまりわたしにとって母方の祖父母)のための小さい家も建ててからは実家までさらに近くなり、子供の足でも5分とかからない距離になった。その実家に、お正月の3日か4日あたり、ミヨ子一家と弟一家が集うのが最も身近な「しょがっで」だった。

 身内どうしではあるが、母親のハツノはいつも一通りの正月料理を準備して迎えてくれる。つまり、「もっのすもん(餅の吸物=雑煮)」、筑前煮風の鶏肉入りの煮物、金時豆の煮豆、「オバ」と呼ぶ晒し鯨、「しおけ」と呼ぶ練り物類の盛り合わせである。料理上手のハツノは、地域の伝統的な正月料理以外に、昆布巻きや「朝鮮漬け」〈137〉と呼ばれていた浅漬け風の漬け物を用意することもあった。

 それらのごちそうを一人分ずつ並べたお膳が、人数分用意された。大人は分量が多めだったり、焼酎のあてにもなる「しおけ」の数が多めに盛られたりする違いはあっても、基本は同じ料理である。

 家に入ると、まず仏壇にお参りしお線香を上げる。これは、一年中、どのお宅に伺っても同じなのだが、仏具がきれいに磨かれ、ふだんより華やかな花が活けられた仏壇は、お正月らしいすがすがしい空気が漂っていた。そのあとお互いに年始の挨拶を交わす。3軒の顔ぶれが揃ったら「おそゆ」と呼ぶお招きの食事が始まるのだ。

 料理の種類そのものは集落、あるいは地域内のどの家庭も大同小異なのに、味付けや入っている食材は微妙に違う。同じ食材でも切り方が違う場合がある。その微妙な違いを楽しみながら世間話に花を咲かせるのは、ミヨ子にとって滅多にないくつろぎの時間だった。

 ミヨ子も弟(わたしにとって叔父)も、子供は上が男、下が女の二人ずつ。年齢も家も近かったので子供どうしは遊び友達でもあった。「しょがっで」では、クリスマスプレゼントにもらったおもちゃなどを持ちよって遊んだ。もちろんお年玉ももらえる。「しょがっで」は子供たちにとっても新年の楽しいイベントだった。

 ミヨ子の実家での「しょがっで」には、まだ健在だった舅の吉太郎や姑のハルは同行しなかった。夫の二夫のほうの親戚筋が参加することもなかった。いま思えば「女正月」の意味合いもあったのかもしれない。

〈137〉朝鮮漬けは白菜やニンジン、昆布などを塩味であっさり漬けたもの。いまで言えばキムチのことかもしれないが、キムチのように発酵はさせない。「朝鮮漬け」と銘打ってビニール袋入りで市販されてもいたから、当時の鹿児島ではキムチの代用品というわけではなく、(朝鮮発祥の?)珍しい漬け物という位置づけだったのかもしれない。
 ハツノが作る朝鮮漬けは市販品より、ずっとおいしかった。漬ける素材を工夫している点もおいしさを倍加させた。味が濃い目の正月料理の合間につまむ箸休めとしても喜ばれた。

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