文字を持たなかった昭和492 酷使してきた体(5)盲腸の手術痕

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これからしばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していくことにして、もともとあまり丈夫でなかったことや、農家の嫁としては多少の不調はがまんせざるを得ない背景があったことを述べた。

 続いて、体に残っていた病気などの痕跡三つに触れることにし、若いころの紡績工場勤務の際にできた下肢静脈瘤と、工場で機械に指を挟み指先が少し欠けていることについて記した。いずれも、苦労の痕とも言える痛々しさがあった。

 幸い三つめは、そんな性質のものではなく盲腸手術の痕である。小柄ながらもともとふっくらした体形で、子供を3回身ごもった<213>ミヨ子のお腹周りは貫禄があり、下腹部は女性らしく脂肪がたっぷりついていた。そのお腹の一部に深い溝があった。幼かった娘の二三四(わたし)が、これまた無邪気な好奇心から「これどうしたの」と訊くと「盲腸を切ったあとだよ」とミヨ子は答えた。

 当時の二三四は「モウチョウ」がいかなるものか、それを切るとはどういうことか、まったくわからなかったが、成長して周りの大人が同じように「モウチョウを切った」という噂を聞くようになると、お腹のあのあたりを切って、中の何かを取るのだな、という想像はつくようになった。

 その想像が極めて具体的になるのは、昭和50(1975)年、高校1年生の長男のカズアキ(兄)が虫垂炎になったときである。腰のあたりから始まった痛みは激しさを増し、病院に行った結果虫垂炎だとわかったのだが、その一連の流れや病院でのお見舞い、術後の様子などから、ミヨ子も経験したであろう一切をようやく理解できるようになった。

 もっとも、ミヨ子の手術はもっと前だから、医療技術や衛生環境はもっと劣っていたかもしれない。その証拠かのように、ミヨ子の手術痕はちょっとひきつっているようでもあった。

 手術を受けるミヨ子はさぞ不安だっただろう、と思われるのは、当時はカズアキを身ごもっていたからだ。妊娠何か月だったか二三四は聞きそびれたが、お腹はかなり大きかったという。ミヨ子は当時を振り返り
「ここ(盲腸)は、カズアキがお腹にいたときに切ったからね。赤ちゃんを切ってしまわないでください、ってお医者さんに言ったりしたんだよ」
と冗談めかしてミヨ子は言った。

 手術は無事に終わり赤ちゃんも五体満足で生まれた。15年後、その赤ちゃんも虫垂炎になるとはちょっとした因縁を感じるが。ちなみに娘の二三四の盲腸は、還暦を迎えたいまも健在である。

<213>ミヨ子が最初の子供を死産したことは「四十四(初めての子供)」で述べた。その後男の子と女の子を一人ずつ授かった。

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