文字を持たなかった昭和490 酷使してきた体(2)背景

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。これからしばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していこうと思う。

 noteでも何回か触れたが、ミヨ子は若いころの紡績工場勤めで結核を患った<209>。幸い完治し、そのあとにもたらされた縁談に応じて結婚し、長男のカズアキ(兄)や長女の二三四(わたし)を授かった。

 二三四の記憶の中ではミヨ子は丈夫なほうではなかった。「六十四(丈夫というわけでは…)」で述べたようによく鼻血を出したし、腎盂炎にかかったりもした。ただ、そうかと言ってしょっちゅう寝込んで農作業にも支障が出る、というわけでもなかった。もちろん、舅姑もいる三世代同居では、多少体調が悪い程度で寝込んでもいられない、という事情もあっただろう。

 そもそもミヨ子たちの集落がある農村地区には病院もなかったし、農家の人たちはちょっとしたケガや病気で医者にかかる習慣も、そのためのお金もなかった。とくに嫁に対してはお金をできるだけ使わないようにしていたことは、想像に難くない。

 ことにミヨ子の嫁ぎ先の場合、舅の吉太郎は働き者で倹約家、ひらたく言うとケチでもあった。姑のハルは倹約が過ぎて通常の出費も渋るような夫に仕え、家計を切り盛りするために、夫以上に働き者で、締まり屋だった。この舅と姑の前では、ミヨ子はちょっとした不調などは飲み込まなければならなかった。

 こう書くと「でも旦那さんが少しは気を遣ってくれたのでは?」と言われそうだ。しかし、夫の二夫(つぎお。父)もまた体は丈夫だったし、何より医者嫌いだった。(壮年期を過ぎてから大きな病に見舞われるのだが、その様子はひとつ前のテーマ「困難な時代」の後半で触れた)

 自分の体に自信があり、実際めったに病気をしないから、二夫にはある意味「人の痛みがわからない」部分もあったように思う。ミヨ子の体調が悪く「病院に行きたい」と口に出したときでも――それはよほど切羽つまったときなのだが――
「また病院か。医者代もかかるのに」
と一言言わずにいられなかった。それでも最後にはミヨ子を病院へ送っていくやさしさも持ち合わせてはいたのだが。

 娘時代に勤めた佐賀の紡績工場で、ペニシリンという特効薬が行き渡るまでは死の病同然だった結核に罹りながらも、適切な治療の結果全快したミヨ子は、医師の診察や施療には絶対的な信頼を置いていた。家には富山の薬売りが定期的に巡回して置いていく置き薬があり、ふだんはそれですませても、どうしても病院で診てもらいたいと言い出すこともあった。そのあたりの使い分け、基準はミヨ子自身の直感によるものだったかもしれない。

<210>ミヨ子が紡績工場で結核を患ったこと、帰郷して治療を受けたことは「二十一(夢半ば)」、「二十四(療養)」で述べた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?