文字を持たなかった昭和319 スイカ栽培(28)プライド

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べてきた。苗を植え受粉させ大きくしたい実以外は摘み取り、実が色よく均一に大きくなるよう向きを調整してやるなど、手塩にかけて収穫にこぎつける。そして農協に出荷するのだが――。

 前項で述べたように、多少不出来なスイカ(などの作物)でも出荷して、少しでも収入の足しにしようとする農家もいる中、二夫(つぎお。父)は出来の悪いスイカ(などの作物)は出荷したがらなかった。

 過去の「文字を持たなかった昭和」でも触れたことがあるのだが、地域ではそれなりの土地持ちの農家の一人息子として、地元の名士とまでいかなくてもそこそこか名が通り、交友範囲が広く地域や農協の仕事も積極的に引き受けている二夫としては、自分なりのプライドがあったのだと思う。

 当時40歳を超えたばかりの働き盛り、若手の農家としてあたらしい作物に取り組む好奇心も体力もあった。世の中も高度気財政長期、農業経営にもあたらしい風がどんどん吹いていた〈151〉。何より、二夫自身が――戦争と戦後の混乱のため学業を中断せざるを得なかったが――〈152〉上級学校への進学が一般的でなかった当時、高等農林師範学校へ進み、一般の農家は学ぶ機会もその意欲もない、農業の理論を学んだという自負があったはずだ。

 だから、ということだろう。出来のわるい作物は出荷できない、というプライドとプレッシャーを、自分で自分にかけていた――のかもしれない。

〈151〉経済成長に伴う第二次産業の拡大、あるいは第二次産業の拡大に伴う経済成長に農業も引きずられた、と言えなくもない。といまは思う。
〈152〉父の生涯については改めて書くつもり(すでに何回か表明していますが、とりあえず母を優先しています)。

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