文字を持たなかった昭和 七十五(オートバイ)

 戦後の経済成長期、ミヨ子(わたしの母)の嫁ぎ先の農家でも、耕運機田植え機など機械の導入が徐々に進んだことに触れた。

 生活にも変化が起こっていた。具体的な時期は確認できていないが、夫の二夫(つぎお)が自動二輪車の免許を取り、オートバイを買ったのだ。たしかYAMAHA製だった。

 戦後、交通手段として二輪車が脚光を浴びはじめ、楽器メーカーであるYAMAHAがそのすぐれた技術をオートバイ製造に生かすことを計画したのは昭和33(1958)年、商業製造と販売は昭和35(1960)からで、同年には発動機事業を分離しヤマハ発動機を設立している。その後モデルと生産量を拡大していくが、そのあたりで二夫もYAMAHAのオートバイを買ったと思われる。

 ミヨ子は二夫が運転するオートバイの後ろに乗って、隣り町まで映画を観に行くことがあった。テレビが普及する前の映画全盛期、ちょっとした規模の町には映画館があった頃である。隣り町は鹿児島県内有数の温泉街として有名で、店舗や娯楽施設もたくさんあった(ミヨ子が紡績工場勤めで患った結核を入院治療したY医院もここにあった)。

 YAMAHAの歴史と照らし合わせると、オートバイの購入は昭和35年の長男誕生以降になるはずだが、映画鑑賞へは、子供の世話を姑のハルにお願いして夫婦だけで出かけたということだろうか。もっとも当時の習慣や社会情勢を考えれば、赤ん坊や小さい子供を連れて映画を観に行ったとしても不思議ではない。

 わたしも、まだうんと小さかった頃――昭和40年代前半だろうか――ヘルメットも被らず、オートバイに両親、兄、わたしの4人で乗っていた記憶がある。いま考えると危険極まりないが、乗用車などほとんど通らない田舎の農道で、小さい子供づれの定員超過でオートバイに乗るのは、多めに見てもらえたのだと思う。

《主な参考》
ヤマハ発動機>ヤマハヒストリー


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