文字を持たなかった昭和287 ミカンからポンカンへ(9)倉庫その後①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、その変遷を(1)から順を追って述べてきた。(7)では、たくさんのポンカンがカビてしまっていたミカン山の倉庫の状況を、(8)ではポンカンを作らなくなってからのミヨ子の回想などを書いた。

 二夫(つぎお。父)たちがポンカン栽培を諦めてから、家族の足がミカン山そのものからすっかり遠のいたのは、赴く必要がなくなったこともあるが、忘れてしまいたい気持ちも多かれ少なかれ働いていたと思う。そうやって、ミカン山はみんなの記憶の隅に押しやられていた。12年前(2011年)に二夫が亡くなったあとは長男の和明(兄)に所有名義を書き換えたものの、固定資産税を納めているだけの状態が続いていた。

 あるとき。和明から二三四(わたし)へ連絡があった。

 なんでも、倉庫の土台などに使ってある石(石材)が、いまではほとんど手に入らない希少なものであること、どういう経緯か沈壽官さんの窯がこの石材を購入したいらしいこと、間に入っている建材店に売ってもかまわないか、倉庫の解体なども建材店がやってくれるらしい――といった内容だった。

 沈壽官氏は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、出兵を命じられた島津家が帰国の際に連れてきた――いまの言葉で言えば「拉致してきた」とも言える――半島の技術者たちのうち、陶工の名家だった人の子孫だ。陶工たちは領内に土地を与えられて窯を興し、地元の土を使って陶器や磁器を極めた。高度な技術によって産まれた「薩摩焼」は、日本のみならず、後年には輸出もされるようになる。島津家はこれらの陶工に士分を与えて重用したとされる。

 薩摩焼を焼く窯は県内に多数あるが、現在15代目を承継する沈壽官窯はその代表格と言えるだろう。沈壽官をはじめいくつもの窯がある苗代川は、二三四たちの郷里の隣り町の山あいに所在する。

 その沈壽官窯から所望されたのだから、名誉なことではあった。(8)までに書いたとおり、もう誰も使わなくなり、おそらく朽ちているであろう倉庫の材料が再利用されることは、そもそも喜ばしいと言えた。吉太郎(祖父)の代からの苦労を思えば惜しい気持ちはなくななかったが、だからと言って、和明や二三四の代であたらしい事業を起こすことはあり得ない。二三四は「いいんじゃないの。兄ちゃんに任せるよ」とだけ返事した。

 二三四はあとで和明と確認したのだが、石材は倉庫の土台だけでなく、土台の上の壁の一部にも使われていた。おそらく湿気と白アリ対策だろう(鹿児島の家屋は、昔は床下を高く作ってあった)。石材そのものは、二夫たちが自ら切り出して、倉庫を建てたと聞いている。二夫は若いころ墓石を彫る仕事をしていた時期があり、石材の切り出しにも心得があったのだろう。

 二三四が思い出しても、ミカン山は石というか岩が多かったから、もしかするともともと岩山で、建築材料に使える石があったのかもしれない。それにしても、山の開墾だけでも重労働だったはずで、石材まで自前で調達するとは、どれだけ苛酷だったか、想像すらできない。

 こうして、二夫やミヨ子たちの労苦とともにあった倉庫の石材は、新たな役割を得て「嫁いで」いった。

 石材は、沈壽官窯が新しく作る施設の一部で使われると聞いた。いつか沈壽官窯を訪れ、石材たちがどんな姿でいるか見てみたいと、二三四は思っている。

《参考》【沈家のあゆみ】 沈壽官窯 || Chin Jukan (chin-jukan.co.jp)

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