文字を持たなかった昭和 二百二十二(暖房その一、囲炉裏)

 昭和期の鹿児島の農村。母ミヨ子の暮らしぶり、仕事ぶりなどを書いている。秋も深まりある時季、当時の暖房を振り返ってみる。

 ミヨ子が生まれた戦前はもちろん、戦後もかなり経つまで、集落の農家には囲炉裏(いろり)があった。昭和29(1954)年にミヨ子が嫁いだ先は、そこそこの財産持ちの農家で家屋敷も大きかったが、舅の吉太郎がまだ独身の頃に買った、いまで言えば古民家の建屋で、造りは昔ながらの農村の家屋そのものだった。

 家屋の造りは「八十一(屋敷)」のとおりで、農作業場を兼ねる広い土間から上がった板の間に、囲炉裏が切ってあった。天井からは自在鉤(*1)が掛かり、その末端にヤカンや鍋を下げた。簡単な煮炊きや汁の温め直しなどはこの囲炉裏で行うのだが、冬場は暖房も兼ねていた。

 焚き木(*2)は山林――名義はすべて吉太郎である――から調達できた。とは言え、ミヨ子が嫁いだ頃、運んで来るのにはほとんど人力に頼るしかなかった。山の入口までは徒歩20分ぐらいだが、山へ上って分け入り、焚き木を広い、まとめて、降りて来なければならない。細めの枯れ枝を拾い集めて背負ってくるか、夫の二夫(つぎお)もいっしょの時はリヤカーに積んだあと、二夫が引いてミヨ子が押すのだった。

 晩婚だった吉太郎や姑のハルはもうだいぶ腰が曲がってきていたので、リヤカーを引くより自分が背負える分だけ背負うほうを選んだが、働き者の二人は、かなりの量の焚き木を器用にまとめて背負って帰った。

 屋敷の敷地でも、小ぶりの雑木林や竹林が家屋を取り囲んでいた。それらの枯れ枝や、伐採した下枝、伸びないよう切った竹なども、もちろん焚き木になった。たまに大きな木や枝を切ったりしたときは、二夫がくべやすい大きさに切ったり割ったりしたあと、雨よけの板などを被せて保存した。かかように手間はかかったが、燃料代そのものはゼロだった。お金で買うのは火を点けるためのマッチぐらいっだったが、倹約家の吉太郎もハルも、マッチ代を惜しんだ。台所の竈に火が残っていればそこから囲炉裏に火を持ってきた(その逆もあった)。 

 いま「囲炉裏を囲む生活」と聞けばレトロでノスタルジックだが、なんと言っても木を燃やすのである。しかも室内で。上手に火を起こさないと家じゅうに煙が充満する。火が起きたあとも、もちろん煙は出る。そのため昔の家屋の天井は高く、ミヨ子たちの家も例外ではなかった。暖まった空気は煙とともに天井のほうへ上がって、煙抜きに作った隙間から逃げていくのだから、火の勢いほどには部屋は暖まらない。

 それでも、手を火にかざし、身体の正面だけでも暖かい空気に触れていれば、全身が暖かくなる―――ような気がした。 

(*1)鹿児島弁で「じぜかっ」
(*2)鹿児島弁で「たっもん」。「焚く物」が訛ったもの。


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