文字を持たなかった昭和 八十一(屋敷)

 わたしの母ミヨ子の半生について続ける。

 田植えの前にあわただしく朝食や昼食の支度をするなど、ミヨ子が多くの時間を過ごした台所について書き始めていたのだが、その前に嫁ぎ先の屋敷全体について述べたほうがよさそうだ〈75〉。

 夫の二夫(つぎお)の家屋敷、そして一切の田畑山林は、舅の吉太郎が一代で買い求めたもので、一人っ子の二夫が家業を継いでいた。もちろん吉太郎や姑のハルとも同居で、長男が生まれてからは三世代同居が始まっていた。

 屋敷の敷地は、集落の中心部の田畑を囲むように走る農道から、外に向かうように伸びるいくつかの坂のひとつにあり、坂を少し上がったところにあった。敷地の入口(門口)は西を向いており、そこから細長い庭が伸びていた。細いと言っても、いまなら乗用車が通れる程度の幅はあり、敷地の奥のほうもっと幅が広かった。

 ミヨ子が嫁いだ当時まだ藁ぶき屋根だった屋敷は、母屋と納屋がつながっていた。屋敷はもともと大工さんが自分の家として建てたものを、まだ独身だった吉太郎が気に入って譲ってもらったそうだ。購入後もしばらくは大工さんも住んでいたという。天井を走る太い梁には原木の曲線が残り、味わいがあった。柱も太く、全体的にがっちりした造りだった。 

 建物全体は南向きで、長く伸びる庭に沿うように建っていた。庭を挟んで向かい側には、1メートルぐらい高くなった土地を畑として使い、畑の土手は土が流れないよう石垣を組んであった。

 母屋の玄関を入ると広い土間があり、その左手に囲炉裏を切った10畳ほどもある居間があった。居間の左側(上手)には仏壇と床の間をしつらえた「表の間」(仏間)があった。居間と表の間は庭に面しており、縁側で繋がっていた。縁側は夜になると雨戸を閉めた。玄関の引き戸も木製だった。

 居間の奥には箪笥などを置いた小さな部屋があり、表の間の奥にも四畳半ぐらいの部屋があった。このふたつは北を向いていた。台所は土間の奥で、やはり北側にあった。風呂場は独立しておらず、五右衛門風呂が台所の隅に置かれていた。

 玄関から土間に入った右手は、木製の引き戸を隔てて納屋に続いていた。納屋は、外から直接入れるよう、大きく開く引き戸が庭に面して付けられていた。中は15畳ぐらいの広さがあり、梯子を使って、いまでいうロフトのような中二階に上がることもできた。納屋では鍬などの農具や収穫物を収納するほか、雨の日に簡単な農作業をすることもできた。湿気を避けられる中二階には、藁や軽い農具などを収納していた。次の年に植える穀物や野菜の種などは、風通しのいい袋に入れて納屋の柱に懸けてあった。納屋では牛を飼うこともあったが、いつもいたわけではない。

 トイレ、というか厠は外にあり、納屋の脇に屋根をかけてあった。いわゆる「外便所」である。用を足すためには納屋を通ってもいったん外に出る必要があったわけだが、当時近隣の農家の厠はほとんど外にあった。位置的には、門口(正門)から入って敷地のいちばん奥まった位置に厠があったことになる。

 門口から見た景色で言えば、前方に長い庭が伸び、右手に畑、左手には小さな籔の先に屋敷があった。庭を進んでいくと、母屋の縁側が伸び、玄関、納屋、その先に厠、という順番になる。

 庭先の畑を含め、すべてがミヨ子たちの生活と仕事の場だった。 

〈75〉屋敷は昭和40年代後半に増築し構造を少し変えたが、それまでは建てられたときの構造のままだったはずだ。敷地内の配置や屋敷の構造はわたしの幼少時の記憶による。

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