文字を持たなかった昭和 五十九(写真1)

 初めての子供は何かと手をかける、というのはよく言われる。複数の子供を持つ親御さんなら思い当たることも多いと思う。

 写真もたくさん撮る。いまやスマホで、写真はもちろん動画も手軽に撮れるので、日々成長するかわいい我が子の表情や仕草を音声入りの映像でたくさん残している家庭が多いことだろう。

 ミヨ子や二夫(つぎお)が、最初の子供の死産を経てようやく長男を授かったのは昭和35(1960)年。当時、日本の一般家庭におけるカメラの普及(所有)率がどの程度だったかは調べ切れていなが、ミヨ子たちが住む集落でカメラを持っている人は極めて少なかった。町の中でも、商業従事者が多い地域では持っている人がそれなりにいただろうが、農林漁業が産業の中心だった町では、全体のカメラ所有率はやはり高くなかったはずだ。

 カメラ自体が高価であることに加え、フィルムや現像代など、カメラの所有に付随する支出もばかにならなかった。持ち込んだフィルムを現像できる写真館も町に1軒しかなかった。もしカメラを持っていたとしても、デジカメやスマートフォンのように仕上がりに関係なくバシバシ写真を撮るなんて、フィルムがもったいなくてできなかったし、撮った写真の現像に手間も時間もお金もかかるとなると、一般庶民にとってまだ「写真はぜいたくな趣味」でしかなかった。DPE〈66〉 の技術が進み、写真館以外で写真の現像や取次が始まるのは1970年代以降のことである。

 もちろん、ミヨ子たちもカメラを持っていなかった。しかし、待望の赤ん坊、しかも男の子の姿は機会あるごとに残しておきたい。そこで、カメラを持っている知り合いに撮影を依頼した。

 おくるみ姿で収まっていたのが、長男(和明)のおそらく最初の写真だ。小学校の入学式に自宅の庭で親子揃って撮った写真もあった。記念写真の類を除くと、何かの行事(いま風に言えばイベント)のときに撮った写真を分けてもらう、というケースが多かったのではないか。会場や出かけた先で、知り合いに撮影を頼んだり、向こうから撮ってくれたりした。あるいは、撮影した人が出来上がった写真を見ていて「和明君も写っていましたよ」と届けてくれることもあった。

 徐々にカメラが普及するようになると、行事だけでなく日常のちょっとしたスナップを撮る人も出てきた。多くは、声をかけられカメラに正対して撮るのだが、家の中や庭で「なんでこんな場面や表情を?」と思うようなアングルで撮った写真をもらうこともあった。だが、わが子や家族の姿が「写真」というはっきりした形として残ることは、ミヨ子たちにとってもうれしいことだった。

〈66〉DPE(自動プリント、Development Printing Enlargement)
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