文字を持たなかった昭和313 スイカ栽培(22)不出来な実

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 母の日関連でまた休んだが、引き続き昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べたい。苗を植え受粉させ大きくしたい実以外は摘み取り、実が色よく均一に大きくなるよう向きを調整してやったその続きである。

 いろいろ計算し慎重に世話をしていても、形がおかしくなったり、均等に色がつかなかったり、うっかり生り口から実が千切れてしまったり――の結果としての不出来な実は、どうしても生じてしまうもの。

 そんな半端な実は自分たちで食べた。もうだいぶ色づいていると思われるぐらい大きくなったものは、持ち帰って食事のあとなどにいただくほかに、摘んだばかりのものを畑での休憩のときに食べることもあった。大きな包丁はないので、畑の境界の目印代わりの石にぶつけて割ってから、鎌などで切り分けた。

 割ってみてまだ色がついていなければ、薄く切った実に塩を振って漬け物の代わりにしたが、「摘果②」に書いたように、それほどおいしい漬け物にはならなかった。

 子供たちのおやつになることもあった。どのみち商品価値はないということだろうか、直径20cmほどのスイカを横半分に切り、上の和明と下の二三四(わたし)にそれぞれ一切れ、つまりスイカ半分ずつがあてがわれた。スイカを栽培し始めた頃には冷蔵庫もあったので、子供たちが学校から帰って「おやつは何かな?」と冷蔵庫を開けると、横半分に切ったスイカがデンと置いてある、という流れ。それをスプーンですくって食べるのだ。

 贅沢なおやつだが、つまるところは出荷するほどではないスイカ。甘みが薄かったり、十分に色づいていなかったりするうえ、食品用ラップがまだ普及していない頃、半分に切った切り口から冷蔵庫特有の匂いが移っていたりもして、喉の渇きを癒すにはいいが、回が重なるにつれ喜んで食べる気分は遠ざかった。

 その思い出が強烈で、二三四にとってスイカは「一生分食べた」気分のする果物だ。

 だが、ある程度の大きさに育てたスイカの実をやむなく摘むことにしたとき、両親はどんな思いだったろう。もっと感謝して食べればよかったと、いまになって思う。

《「スイカ栽培」項の主な参考》
スイカの栽培方法・育て方のコツ | やまむファーム (ymmfarm.com)

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