文字を持たなかった昭和310 スイカ栽培(19)摘果②


 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところは、昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べている。苗を植え伸びてきた蔓を整え受粉させ大きくしたい実以外は摘み取ってしまう(摘果)

 スイカ栽培の解説によれば、摘果タイミングは実がソフトボール大になった頃とある。たしかに二夫(つぎお。父)やミヨ子が「テッカ」した実には、そのくらいの大きさのものがあったことを、二三四(わたし)も覚えている。

 摘んだほうの実は、トンネルとトンネルの間の細い通路に無造作に転がしてあった。それを集めるのも子どもの手伝いのひとつだった。ソフトボール大といえばけっこうな大きさで、いずれ大きくなったかもしれない実だと思えば、子供心には食べられそうな気もした。

「もったいないねー。食べられないのかな」
とミヨ子に尋ねると、鎌などで半分に切ってくれる。中は真っ白で、いずれ種になるであろう小さな白い粒も見える。鼻を近づけるとスイカ「のような」匂いがしないわけでもない。トンネルの中で増幅された太陽のエネルギーをついさっきまで集めていた実は、生温かい。

 そっと歯を立ててみると――、甘くもなんともない。そりゃそうだよね、と納得しつつ、食べ残りを畦の草の上に置いておく。摘果後の実には、使い道があるのだ。

 摘果した実は耕運機の荷台に集めて家まで運んだ。納屋には、いずれ肉牛として売るつもりの牛がいる。牛に与える餌を準備するための専用の木箱にスイカの実を入れ、これまた専用の刃物でそれを細かく切る*のだ。皮もまだ薄く柔らかいのでそのままだ。

 刃物の名前はわからない。名前があったのかもしれないが二三四は忘れてしまった。半円形に近い刃が柄の先についており、柄を上下することで、下にある餌を刻む仕組みだ。刻むと言ってもみじん切りにするわけではない。牛の口に入るぐらいの大きさに粗く刻めばよかった。刻んだあとは、餌を入れる桶に移す。味はないのに、牛は「スイカの子ども」をうまそうに食べた。

 ただ、牛をいつも飼っていたわけではない。牛がいない時期は、摘果した実の皮を剥いて浅漬けにすることもあったが、これはお世辞にもおいしいとは言えなかった。食べられる分だけをとり置いたあとは、刈った草などといっしょに堆肥にするか、家の裏の杉林に捨てて「天然の堆肥」にしてしまうことも多かった。 

*鹿児島弁「小切る(こぎる)」 

《「スイカ栽培」項の主な参考》
スイカの栽培方法・育て方のコツ | やまむファーム (ymmfarm.com)  

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