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文字を持たなかった昭和 続・帰省余話5~中秋

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、先だっての帰省の際のあれこれをテーマとすることにして、強く印象に残ったことの簡単なまとめに続き、表情が乏しくなったことや、膝に力が入りづらくなっていることなど具体的なエピソードを書いている。

 すでに取り壊した実家に代わって二三四(わたし)の帰省先になっている兄宅に着いたのは中秋、十五夜だった。

 夕闇が濃くなる頃、手作りのお団子と家庭菜園で穫れたサツマイモ、そして近所でようやくみつけたというまだ穂が開かない芒を、月が見える座敷に義姉が飾った。

 いつものように義姉の手料理が並んだ食卓の、「定位置」の座椅子にミヨ子さんは腰かけている。
「お母さん、今日は十五夜だよ。お義姉さんが団子も作ってお供えしてあるよ」
二三四が声をかけるが、ミヨ子さんはいまひとつピンときていない感じ。お供えとお月様を見ればわかるのだろうが、いったん座った座椅子から立ち上がるのはちょっと難儀な様子だ。
「十五夜は、いつも団子を作ったよねぇ」
と、二三四は誰にともなく呟く。

 ミヨ子さんが現役主婦だったころ、十五夜は農家の年中行事として外せないものだった。ちょうど収穫の季節、穫れたばかりの芋類を手作りの団子といっしょに大きな箕(み)の上にお供えした。一升瓶に挿した芒も。(十五夜については以前「百六十五 十五夜」で詳しく述べた。)

 そんな行事と行事食の準備の中心はいつもミヨ子さんだった。二三四も物心ついた頃から手伝ったが、段取りや進め方はミヨ子さん任せだった。そのミヨ子さんが、十五夜と聞いてもあまり反応しない様子に、二三四の胸には、がっかりというよりちょっと哀しい気持ちが過った。

 こんなふうに、いろいろなことを忘れ、あるいは認識できなくなるんだな。

 でも。中華圏では、中秋の丸い大きな月は家内円満を象徴する。家族がうち揃い、ご馳走を囲んで団欒を楽しむ。中秋節といえば大陸でも台湾でも休日で、親元や郷里に帰省する人が多い。二三四の場合、十五夜を親と過ごしたのはいったいいつだったか。郷里を離れて大学に進学して以降、もう30年以上も、そんな機会は一度もはなかった気がする。

 実家ではないが郷里の空に浮かぶ月は煌々と明るく、ミヨ子さんと語らいながらの食卓の雰囲気は暖かかった。会話は、ありていに言えばかなり嚙み砕かないと通じず、伝えたいことを全部伝えられたわけでも、ミヨ子さんの意図を全部酌み取れたわけでもない。それでも母娘並んで食事できるしあわせは、中秋にふさわしいものだった。

※写真は十五夜の月明りを浴びる「ミルク」
 前回の帰省については「帰省余話」127

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