文字を持たなかった昭和 続々・帰省余話12 ボタン

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。このところは、先日帰省した際のミヨ子さんの様子をメモ代わりに書いている。

 前々項では「着た切り雀」、前項では「毛糸のチョッキ」というタイトルで、ミヨ子さんの着衣やその習慣について述べた。それで思い出したことをひとつ付け加えておきたい。

 前回(昨秋)の帰省について記した中でも述べたように、ミヨ子さんは几帳面だ(続・帰省余話6~几帳面)。認知機能の低下に伴い几帳面になった気がする、というのはわたしの印象のほうで、じつはもともと几帳面で、それが強く出るようになったのだろう。服のボタンは全部留めようとする。

 今回デイサービスに行く前に着替える際、お嫁さん(義姉)が「いっしょに選んであげて」と促したので、クロゼット――というか両開きの扉がついた押し入れ――の中を見ながら、何を着ていくか相談した。

 じつはわたしは着るものコーディネイトが得意ではない。加えて、ミヨ子さんがどんな服を持っているのかよく知らない。だからこの「役目」はちょっと気が重かった。

 しかしミヨ子さんは、自分で「上はあれ引っかけていこうかね」と、赤の織り柄が入ったニットのカーディガンを指さした。じゃあ下にはこれを、ズボンはこれを…と、わりあいすんなり決まり、ほっとしながら着替えさせた。

 ところが。カーディガンの、上から二番目のボタンが取れていたのだ。どうりでクロゼットに掛かっているとき「あまり着ていない」雰囲気があったわけだ。ミヨ子さんは順番にボタンを留めたあと、開いたままのボタンの穴をしきりに気にしている。

 「お母さん、上と下を留めれば、ここのボタンがなくても大丈夫だと思うよ」と説得にかかったが、納得がいかない様子だ。しまいに「別の服にしようかね」と言い出した。

 服を裏返してみると、ラベルには予備のボタンが残っている。改めてコーディネイトする気力がないわたしは、予備ボタンをつけてあげるほうを選んだ。

 「お母さん、いったん脱いで。わたしがすぐに付けてくるから」と声をかけると、こんどは「出針(でばい)はすいもんじゃなか、ち言うがね」(出がけの針仕事はするものではない、って言うものでしょ)。

 出がけの針仕事はするものではない。標準語でも同じ言い方があり、外出直前のあわただしいときに針を扱うとケガをしやすい(だから避けるべき)、という意味あいで使われる。おなじ理由で、鋏や刃物も出かける直前には触るな、と実家では強く言われたものだ。

 ミヨ子さんはそのことをしっかり覚えていて、娘の軽挙(?)を諫めてくれたのだ。ありがたいことだと思う。

 が、わたしは「出かけるのはお母さんで、わたしじゃないから」と、お嫁さんに針と糸の在り処を聞いて、まさにちゃちゃっとボタンを付けた。思い返せばあのとき、デイサービスのお迎えの時間を気にしてわたしのほうが焦っていた。針で指を刺したりしなくてほんとによかった。

 ボタンを付け終えた服を差し出すと、ミヨ子さんは何事もなかったように袖を通し、順番にボタンを留めた。

 それにしても。ボタンごときにこんなにこだわる人だっただろうか。認知機能が低下すると、こだわりが強くなる、ともいう。こだわるポイントは、人それぞれなのだろう。それに日々つきあってくれるお嫁さんへの感謝とともに、これもまた個性と思うことにしよう、と自分に言い聞かせたのだった。

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