文字を持たなかった昭和420 おしゃれ(16) お遊戯のおかあさんたち

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶり農作業用帽子などのふだん着に続き、「毛糸」と呼んでいたニット製品の中でも印象的だった「チョッキ」カーディガンブラウスなど、よそ行きにしていた服について書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 よそ行きの服はあまり持っていなかったミヨ子だったが、どうしても外出しなければならない用事は当然あった。緑のスカートで述べたような子供を病院に連れて行くだとか、「ちょっとだけよそ行き」で書いた婦人会の行事だとかだ。幼稚園の運動会の「お遊戯」もそのひとつだったかもしれない。

 二三四(わたし)が通った幼稚園は町立で町にひとつしかなかった。小学校と隣り合っていたこともあってか、運動会も小学校の一部に組み入れられていたから、町中の人が運動会を見に来た。そんな、いまふうに言えばプレッシャーがかかる設定のなか、年少組だったか年長組だったかのお遊戯は「おかあさんといっしょ」に行われた。

 母子が手をつないで入場し、クラスごとに輪になって踊るのだ。何を踊ったか二三四は思い出せないが、お母さんたちが練習する時間は限られたはずだから、踊り自体は簡単なものだっただろう。

 そのお遊戯に、お母さんたちは白いブラウスと黒いスカートで参加することを求められた。

 事前にチェックされるわけではないので、白といってもアイボリーっぽいブラウスのお母さんもいれば、フリルがあしらわれたいかにも高級そうなブラウスのお母さんもいた。スカートはセミタイトと規定されていたのか、デザインにはあまりばらつきはなかった。そもそも当時「おかあさん」が穿くスカートと言えば、そんなデザインだったのかもしれない。丈もだいたい揃っていたと思う。

 ミヨ子のブラウスがどんなデザインだっかは思い出せない。二三四は、ほかのお母さんと同じようにきれいな服を着て、でもほかのお母さんよりきれいな自分の母親が誇らしくてしかたなかった。お遊戯の時間は楽しくて、あっという間に終わった。

 ふだんスカートを穿かないミヨ子は、このために黒いスカートを買わなければならなかっただろう。社交的なことが得意でなく、運動も好きではないミヨ子には、決められた服でお遊戯に参加することは気が進まなかったかもしれない。もとより、昭和一桁生まれの田舎の女子には運動する習慣自体ほとんどなかったはずだ。それでも「子供のために」がんばったことだろう。

 おかげで二三四は温かい思い出を後生抱えていられるが、あのスカートはその後別の機会に着たのだろうか。昭和の幼稚園も、ずいぶん厳しかったものだ。

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