文字を持たなかった昭和 百五十六(行事食にサツマイモ)

 概ね昭和40年代から50年代前半。母ミヨ子がおやつに用意したサツマイモについて書いてきた。(「百五十四(おやつにふかしイモ)」「百五十五(おやつにサツマイモ)」)

 ふだんのおやつではないが、行事食としての甘い料理にもサツマイモは時々使われた。 

 お正月やひな祭りの餅つきには、もち米を蒸かすとき、別の段の蒸篭で大ぶりに切ったサツマイモも蒸かし、先に搗きはじめた餅があらかた搗けたところで、やわらかく蒸かしたサツマイモを加えていっしょに搗く。そうすると、ふつうの餅よりもかなり柔らかいサツマイモ入りの餅が搗きあがる。

 この餅は丸めたりせずそのままお椀などに取って、別に用意した小豆餡などを添えてその場で食べた。おそらく砂糖が入った餡を添えるからだろうが、みんな「砂糖もち」と呼んでいた。

 一年の収穫に感謝する「田の神講」〈113〉のときも餅を搗いた。神様にお供えする餅以外に、やはり蒸かしたサツマイモを搗きこんだ柔らかい餅を作る。これは「ねいぼ」*と呼ばれていた。「ねいぼ」は自分たちで食べるほか、この時期にお互いの家を訪れあう近隣の人びとにお茶請けとして供した。

 餅なので冷めると当然硬くなる。電子レンジなどない時代、鍋に少しお湯を足して温め直して柔らかくしたが、出来立ての味にはもちろん及ばないし、焦げやすいのも困りものだった。

 サツマイモ入りの餅は、いま考えれば貴重なもち米を嵩増ししていただくための知恵だったかもしれないが、蒸かしたサツマイモはそれだけで甘みがあり、餅に混ぜ込むと独特のおいしさがあって、とくに子供たちは大好きだった。

 一方大人は、サツマイモは主食を補って常食するもので、やはりもち米だけの餅が格上だと思っているのか、餅のほうをありがたがっていたように思う。戦前から戦中、戦争直後を生きた世代にしてみれば、「カライモ」は死ぬほど食べてきた、という思いがあったのかもしれない。

〈113〉田の神講(鹿児島弁で「たのかんこ」):本来は天皇が五穀豊穣に感謝する新嘗祭に当たり、戦後は勤労感謝の日とされている11月23日の前後、その年の豊作を田の神様に感謝する祭り(講)として、鹿児島(南九州)の各地に伝わってきた。
 地域ごとに(元々はおそらく集落単位で)田の畦などに石仏のような「田の神様(田のかんさあ)」を祀ってあり、「田の神講」が来ると、地域の住民が餅を搗いて神様にお供えする。足元に供える場合もあるが、餅を藁などで包んで背中に背負わせることが多い。住民は輪番で餅を搗くのではなく、各戸でそれぞれ搗いてお供えしていた。現在では地域の事情により変わってきていると思われる。

*鹿児島弁。「ねったぼ」とも呼んでいた。わが家があった地域ではサツマイモ入りの餅だけを指したが、蕎麦団子を指す地域もあるらしい。

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