文字を持たなかった昭和 二百五十八(お年玉)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちのお正月。元日正月料理事始め、そして「しょがっで(正月出)」と呼ばれるお呼ばれについて書いてきた。

 お正月と言えば子供にとって最大の関心事はお年玉。ここでは二三四(わたし)の思い出を中心に書いてみる。

 物心ついた昭和40年代、鹿児島では100円硬貨は流通しておらず100円と言えば紙幣だった。このため――と言っていいだろう――お年玉袋に入れる紙幣には100円札も含まれた。つまり、お年玉の最少額は100円だった。もちろん、100円札を複数枚入れてある場合もあった。

 その上は500円札、1000円札が入っていれば「すごい!」という印象だった。

 母の実家への「しょがっで(正月出)」で母方の祖父母や叔父夫婦には必ず会ったから、もちろんお年玉をいただいた。逆に、わが家へ「しょがっで」(年始挨拶)に訪れる親戚やお客さんからも、必ずと言っていいほど
いただいた。

 「よそ(都会)」から帰ってきた親戚がくれるお年玉は、たいてい多めだった。二夫(つぎお。父)とつきあいのある近隣の人の中では、農協に勤めるおじさんなどが多めにくれた。二三四がふだんからときどき遊びにいく近所のおばあさんのお宅などに、改めて年始の挨拶に行くと、これまたお年玉をいただいた。なんだかんだで、毎年10人以上の大人からお年玉をいただいていたはずだ。 

 親からのお年玉はいくらぐらいだったか、どんな場面でもらったか、あまり覚えていない。親のお年玉は他の人より少ない場合も多い場合もあったが、極端な違いは感じなかったから、当時の地域の相場としては平均的な額だったのだと思う。

 お年玉で「何かを買う」という発想は、二三四にはなかった。冬休みの間にお金を使える場所も機会もほとんどなかったから。お年玉はとりあえず貯金するものだった。子供名義の郵便貯金通帳を――おそらく他の子もみな――持っていて、親が管理していた。そこに貯金してもらうのだ。毎年、お年玉を貯金したあとの通帳を見せてもらうのは、なんだか大人に近づいていくような感覚だった。

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