最近のミヨ子さん 介護施設へお預けするということ

 昭和の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 たまにミヨ子さんの近況をメモ代わりに書いているが、このところは、息子のカズアキさん(兄)一家と同居してきたミヨ子さんがバタバタと介護施設へ入所するまでとその後を述べている。施設に入所したミヨ子さんが新型コロナに感染し面会が叶わなくなった状況も。

 施設はカズアキさん一家の家から近く、会えないまでも様子を聞きに行ったりはできる。一方、施設の近くに息子がいるのに、別の子供が「わざわざ遠方から」電話をかけてあれこれ尋ねるのは、かなり勇気が要る。施設側は身構えるかもしれないし、そもそも電話対応は手も時間も取られる。

 まして前々項「面会謝絶」で述べたように施設内での感染が広がっている状況では、責任者もスタッフもふだんより忙しいだろう。スタッフ(の家族)から感染したようだから、お世話するほうの人員も手薄かもしれない。

 ――というようなことを、延々と考えてしまう。

 親を介護施設に預けた方々は、どんな気持ちで日々を過ごしているのだろう? プロにお預けしたのだから、あとはよろしくやってくれるだろう、行けるときに面会に行けば十分、と割り切れるのだろうか? 割り切るべきなのだろうか?

 こんなふうに悶々としてしまうのは、わたしにとって身近なお年寄り、具体的には両方の祖父母の4人とも、晩年を自宅でお世話していた様子を間近で見て、かなりの頻度で自分もお世話に加わった経験があるからかもしれない(いずれもかれこれ40~50年前のことである)〈258〉。家族による介護が自然なことで、本人にとっても幸せなこと、という刷り込みができてしまったからかもしれない。

 もちろん、プロによるお世話のほうが本人にとっては快適だろうが、気持ちとしてはどうなのだろう、とどこかで考えてしまうのだ。

 そして何より「様子がわからない」のがいちばんつらい。これまではカズアキさんに、というよりお嫁さん(義姉)にちょっとメッセージを送り、様子を聞くことができた。声を聴きたければ電話をかければよかったし、お嫁さんのスマホを借りてのビデオ通話でフェイスツーフェイスの会話もできた。(ビデオ通話なら顔も見られるよ、と提案してくれたのもお嫁さんだった。)

 改めて、お嫁さんにはさまざまに負担をかけてきたのだと痛感する。お嫁さんは一度も不快そうな反応を見せなかったけれども……。もうそんな「特別待遇」は期待できない。

 認知機能が低下し、周りのヒトにも身の回りのモノにも現実的な認識ができなくなることは、死への恐怖を和らげるための神様の采配だと言う人がいる。亡くなってしまうと物理的に手が届かない、意思の交流ができないわけだが、認知機能低下もその前段階のようなものかもしれない。そして施設入所は、物理的に手が届かなくなることへの準備段階かもしれない、と思ったりする。本人の、というより家族の側の心の準備として。

 ミヨ子さんに認知機能低下が顕れるようになってから、とにかく穏やかに、楽しく、過ごしてほしいと願ってきた。施設で穏やかに過ごせているなら、何よりではないか。結局、戻れない現実に自分が執着しているだけではないのか。

 そして、半分は神様の下へ差し出したようなもの、だと思えばいいのではないか。

 半分神様になりつつある(のかもしれない)ミヨ子さん。せめて、おいしいものを食べて、笑っている姿を見せてほしい。

〈258〉ミヨ子さんが舅(祖父)や姑(祖母)のお世話をしたことについては、「文字を持たなかった昭和」の「介護」の中で23回に分けて綴った。そのまとめを「介護(23)」で述べている。

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