文字を持たなかった昭和466 困難な時代(25)お小遣い

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりで、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、高校生だった二三四(わたし)は、母親にいっそ離婚してしまえばと「提案」までしたことなどを述べた。気づまりな生活の中、夫の二夫(つぎお。父)が外出しているときや、来客で二夫の機嫌がいいときは、ミヨ子も二三四もひと息つけた。

 来客の「メリット」のひとつとして、前項ではふだんとてもお目にかかれないような手土産をいただくことがある点を挙げた。

 もうひとつのメリット、これは娘の二三四に直結するのだが、お客さんがお小遣いをくれることがあった。近所や地域の、二夫の農家仲間の場合はまずなかったが、農協の上のほうの人や、めったに訪ねてこない遠くに住む親戚や知人、とりわけ二夫が若い頃から親しくしたり、農業技術を教えたりなど、ひらたくいうと「お世話をしてきた」人たちの場合、二三四を幼少期から知ってもいるわけで、二夫から
「〇〇さんがいらしたよ」
と声がかかれば、あるいは来訪が前もってわかっていれば、二三四は自分から挨拶に出ていって〈197〉
「△△高校だって? 何年生?」
といった問いかけには行儀よくはきはき答えた。

 二三四が通う高校は、旧制中学から続く地元ではほぼ唯一の進学校だったのだ(ただし、当時は進学校の多い鹿児島市内と校区が分かれてたため、県内の名門校というレベルではなかった)。そしてお客さんから
「昔からおりこうさん*だったものね。しっかり勉強しなさいよ。これでノートでも買いなさい」
と、お金を手渡されることがしばしばあった。

 気の利いた人だと小さなポチ袋に予め入れてあったし、「裸ではなんだから」とその場でティッシュで包む人もいたが、古い知り合いだとそのまま渡された。 子供が褒められて悪い気がする親はいないだろう。二夫は相好を崩しながら「大事に使うんだぞ」と言い、それが二三四の退場の合図になった。

 そうやっていただいたお小遣いは、二三四にとっては貴重な「収入源」だった。なぜなら二三四はきまったお小遣いをもらっていなかったからだ。親からお金をもらうのは原則としてお年玉だけ。学校で必要なものは、ミヨ子からその都度お金をもらって買った。親戚や近所の人からのを含むお年玉は、いつかするであろう大きな買物のために、子どものときから郵便局に貯金してあった。

 貯金はそう簡単に下ろせないから、臨時でもらったお小遣いは、ちょっとした買物にほんとうにありがたかった。小さな手帳をお小遣い帳にして、出入りを細かく記録した。たまにしかもらわないお小遣いでも、無駄な買物をしなければ残金が「ショート」することはなかった。
 入った分以上使わない。これが、二三四が体で覚えたルールでもあった。

〈197〉相手が誰であれ、来客があれば座敷に出ていき、正座に指をついて挨拶する。これがミヨ子たちの子供たちへの躾だった。相手によってはしばらく同席させ、大人たちのやりとりを「学ばせた」。子供だからと挨拶もしないで引っ込んでいることはなかったが、面倒な用件を持ち込んでくる人物には、まれに「いないふり」をしているよう言い渡されることもあった。

*鹿児島弁では「てんがらもん」。亡くなった三浦春馬が五代友厚を演じた映画「てんがらもん」では、「天外者」という漢字を当てて、スケールが大きい人としているが、ミヨ子たちの地域では、聞き分けのいい子供、利発な子供などを「てんがらもん」と呼んでいた。

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